夏の甲子園と関西旅行
神奈川代表の慶應義塾高校の野球部が,なんと107年ぶりに甲子園で全国制覇をなしとげた。107年前というのは,夏の全国高校野球(当時は旧制中学)第2回大会の大正5年(1916年)で,夏目漱石が亡くなった年だ。 そのころの野球は,漱石の朋友正岡子規がはまっていたという草野球に毛が生えた程度のものだったろうし,当時,野球部がある学校なんて全国に100もなかったんじゃないだろうか。なので,107年前に意味をもとめ,歴史としてつなげて考えるのはおかしいと,たいていの人は思うはずだ。にもかかわらず,エンジョイベースボールを掲げ笑顔でさらさらヘア,坊主頭なんて時代遅れみたいなメッセージが伝わったものだから,異質であることが脅威としてとらえられ,異様な応援で仙台育英のプレーが妨げられたといった慶応バッシングや,いや高校野球の新しい流れだとかいった指摘のヤフーニュースが決勝の後1週間以上もかまびすしく続いていた(私のスマホの場合)。
野球は,野球オンチでない人なら観戦して面白いと思うはずだ。球技の中でも攻撃と守備が入れ替わり,基本は打者とピッチャ‐の対戦なのに,競技場はすべてのゲーム中最大の広さを要する(戦争をのぞく)。1試合の時間も昔は延長18回なんてこともあり最長だろう。私も,中学で野球部に入り,下手なりにゴロをさばいたりフライをとったり,スローイングがだんだん上達して速いボール投げられるようになるのは楽しかった。どういうわけか私の父は,山梨の日大明誠高校(巨人の木田投手が出ている)の教員で学校が出来た時に勤め始め若かったので,その初代野球部長に就任したという。当時の対戦相手には巨人の堀内(知ってる?)が甲府工業高校にいたそうだ。今ではJリーグやBリーグなど様々なプロスポーツがあるが,プロ野球の人気には及ばない。前日ひいきのチームが勝つと気分がいいし,ヤフーニュースはたちどころにその人のひいきのチームを判定するようだ。
ここまでの話をまとめよう。①ヒトという生き物はゲームに夢中になる性質がある。②自分の所属する集団への帰属意識が必要で,ゲームの対戦においてその帰属意識から,どちらかのチームを応援する理由を探る性質,ないしひいきのチームが勝つ理由を正当化する気持ちが生じることがある。長くなったが,春の選抜に慶応が出たので,甲子園へ応援に行き,夏の神奈川大会準決勝や夏の甲子園の決勝へも足を運ぶことになった。春の選抜初戦で仙台育英に1-2で惜敗したのをバネに夏に決勝で雪辱を果たす,という奇跡のようなまさに劇的場面に立ち会わせてくれて,彼ら(関係者を含め)にはほんとうに感謝しその成果には尊敬の念を禁じ得ない。
というわけで,かみさん同行で春夏ともに新幹線で甲子園に出かけた。甲子園球場は大阪ではなく兵庫県西宮市で神戸のちょっと手前だが,新大阪からJRと阪神電鉄で30分もあれば到着する。ということを行って初めて知るわけなのだが,往復の新幹線代が甲子園の応援だけではもったいないので春は神戸の三宮,夏は大阪の天王寺近くのホテルに泊まって翌日に関西を旅行してから帰ってきた。かみさん(国語の教員)の専門は源氏物語だということで,春は須磨・明石(ゆかりの地),明石の天文科学館(日本標準時の場所),加古川の鶴林寺,そして姫路城,夏は四天王寺と京都の石清水八幡宮,宇治十帖の宇治をまわってきた。姫路城は高校の修学旅行以来で,国宝で今は世界遺産にもなっていて,日本の城郭でもっとも高い天守を誇る。若いときには感じなかったが,天守に登るのが結構きつく,5階ぐらいで前のおばさんの足がつって動けなくなるのに遭遇したほどだ。 そして,ようやくこの歳になって,はてこの城は誰が建てたんだっけか,と自分が知らないことを意識する。高校生ぐらいだと国宝とか言ってもフーンとかしか思わないものだ。無論,城のあるじ(城代,藩主など)は時代によって変わるから,よほどの歴史好き城マニアなどでないと答えらないクイズかもしれない。だが,天守閣からさらに西の丸というところに行くと,千姫の間とかいって説明や衣装や道具などが展示されている。ここでも,はて千姫って誰だっけ?と?が増してくる。有名な観光地なのに,つまり自分がいかにものを知らないかということ自覚するのである。入り口でもらったパンフレットを開いて読んでみる。千姫は,信長の妹「お市」の三女浅井「江」と家康の三男秀忠の間に生まれた子(家康の孫)で,秀吉の子秀頼に嫁いだが,大坂夏の陣で自害した秀頼と別れ炎の中から救出された。江戸に戻り,徳川四天王の本多忠勝の孫の忠刻(ただとき)に再び嫁ぎ,父本多忠政が入府した姫路城に入った。というわけで,歴史通なら豊臣秀頼の正室のことぐらい知っていて当然だとはいえ,こうして少しずつ知識が広がっていくのも旅行の効用だろう。今ある多くの城は戦闘用に作られているとはいえ実戦を経ているのは幕末での熊本城ぐらいのものらしい。
今年の大河ドラマ「どうする家康」は戦国時代を通しで理解するのに私には役立っている。信長から秀吉そして家康へという流れはわかっていても,脇役の武田や上杉,真田,明智などだけでも大河ドラマができるわけで,先に述べたようにひいきの立場(法則②)が違えば,歴史の見方も変わってしまう。また今まで,桶狭間で信長が台頭してから安土城,本能寺,関ヶ原という断続的な知識が,三方ヶ原とか長篠,小牧長久手の戦いを具体的に知ることでつながった。戦国時代という生き残りゲームに最後まで家康が残ったのは,たまたま長生きしたからぐらいに思っていたのだが,もっとしたたかな計算ずくでこの長いゲームの勝者となったというべきだろう。そしてその今川家の人質から大坂夏の陣までのしぶとさは,その後の江戸時代の気風にまで続いていることを知った(後述)。
さて,旅行先で見知りすることもあるのだが,右の写真は今回事前に目的地として選んだ場所で,江戸時代の天文学者麻田剛立の墓だ。四天王寺から歩いて10分ほど。一昨年東京上野の源空寺の伊能忠敬と高橋至時の墓の写真を撮っているので一つのミッションである。日本の江戸時代の天文学は比較的レベルが高く,それはこの麻田剛立によるものと言える。戦国が終わって長く平和な江戸時代があったからこのような科学知識の進展があったと言われている(関孝和の和算などもそうで,西洋とは独立に発展した)。しかし,その江戸時代の気風というのは家康の性格を引きずっていると司馬遼太郎はいう。「覇王の家」(家康の生い立ちから小牧長久手の戦いまでを描いた小説)のあとがきから引用する。「中略~日本に特殊な文化を生ませる条件をつくったが、同時に世界の普遍性というものに理解のとどきにくい民族性をつくらせ、昭和期になってもなおその根を遺しているという不幸もつくった。その功罪はすべて、徳川家という極端に自己保存の神経に過敏な性格から出てている」。この自己保存に過敏な性格というのは,現在の日本の世襲政治とか大企業の内部留保の極端な多さなどに現れていると言っていい。よくいう島国根性だの村社会,同調圧力,空気,自主規制のようなものも同根なのであろうか。
実は,わたくしT家の先祖は戦国時代の佐竹藩,佐竹義重付きの家老T隆定という武家である。家には代々古文書が伝えらえている。その中に,石田三成からの書状,というものがあって真偽は定かではないのだが大切に表装されて伝わっている。秋田へ転封になった義重の子佐竹義宣と石田三成は仲が良かったのでその関係だろうと思われる。そんなものが家にあるのだから当然だが私は三成びいきである。家康の会津征伐の時に伊達政宗が家康になびくのをやめて上杉,佐竹,伊達,最上が連合すれば,家康を倒せたはずだとかよく考えたりする。司馬遼太郎の「関ヶ原」を読むと,有能であるがゆえに嫌われ者の石田三成にえらく感情移入してしまう(島左近も好き)。考えてみるとこれも先にあげた法則②にすぎないのであって,この身びいき本能が家康的なるものと言うべきなのかもしれない。しかし,ひいきの引き倒しと言われようと,今年の慶應高校野球部の掲げるエンジョイベースボールによる全国制覇は,野球を越え現在の日本の閉塞的な状況に一石を投じる偉業と思い,その近くに居合わせたことを誇りとしたい。
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