2017.07.26

藤原新也の沖ノ島

 7月に世界遺産に登録されて,一般の人はもう立ち入ることができないという沖ノ島。藤原新也という人はそういう旬な場所を一歩先にかぎつける能力があるみたいだ。昨日BSでその番組を録画してみた。
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 小説まがいのルポというか,ほんとにそんな不思議なことあるの?というような話を次から次に書く人だと思う。同じことは,「みんな彗星をみていた」の星野博美さんにも共通する。世界を旅してエッセイを書くというのには少しあこがれる。藤原新也の場合には,写真がまたすごい。番組では,その場所で空気を感じ,その空気が写せると思ったらシャッターを切ると言っていた。大げさだが,たぶんその通りなんだと思う。直感を研ぎ澄ますというか,普段からそういう訓練というか,写真文学者というジャンルはこれまたあこがれる。8月1日まで,沖ノ島の写真展をやっているので見に行ってみるつもりだ。

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2017.07.23

AIが政策提言

 またまた,NHKの番組なのだが,昨日の「AIに聞いてみた~どうすんのよ!にっぽん」である。少子高齢化,人口減少,医療年金問題など将来に不安を抱かせる日本社会の現状をNHKが独自に開発した人工知能に70万ものデータを入力してでた結果からマツコ・デラックスをゲストに討論する番組である。
 細かいことは,他に譲るが,浮き彫りになったのは40代の一人暮らしを減らさないと,日本の将来は危ないという後半の話だった。いま,40代の一人くらしの半分以上の人が非正規雇用で,結婚もままならないくらしをしている。まず,言われてみればそんな気がするが,2,30年前には40すぎて結婚してないなんておかしい,という常識がはっきりと崩れているという事実。で,そういう人たちの数を減らすにはどうすれば良いか,という質問をAIにぶつけると,答えは「賃貸住宅の家賃を1万円安くする」だった。
 
 番組を見ていない人につたえるのは,ちょっと難しいが,今まで政策的に行われてきたのは住宅ローン減税とか持ち家への補助。つまり,結婚前提で家族を抱えた人への厚遇のみで,上記のような一人暮らしの人への対策は何もなかったことに気づく。40代で独身貴族のような人は一握りにすぎず,このまますすめば,一人暮らしの高齢者がどんどん増える一方,そして,そういうライフスタイルは,地域のネットワークも形成せず,孤立した都市生活を加速することになる,という見方だ。介護とか福祉というのは,互助的な社会が前提と思うのだが,そうしたつながりを今後つくるしかない,とコンピューターがはじき出したように感じた。

 家賃が下がったら,一人暮らしが減る,というのだが,一人暮らしを減らすのに,結婚ではなくシェアハウス的な住宅,異世代同居住宅も紹介されていた。なんか,朝ドラ「ひよっこ」のアパート暮らしを思い浮かべた。どう考えてもあのアパートは一人暮らしじゃない,みんな筒抜けで,こんなの嫌だと,言うのがわれわれ今の日本人なのだが,そろそろあの時代にもどろうではないか,というのが正解かも知れない。いや,絶対正解だと思う。

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2017.07.21

パチもの

 中国で,勝手に新しいウルトラマンの映画がつくられたとの発表に日本の円谷プロが著作権が侵害されて訴える方針とのニュースがあった。一方,今日の朝日新聞に,JASRACの会長の音楽教室からも徴集する正当性を述べている記事があった。
 偽ブランド品のことを,ばちものとかばちもの,ということを知ったのは映画「下妻物語」だったと思う。すっげ,これ本物のベルサーチじゃんよ。とか疑いもなく大阪のヤンキーは,ぱちもんに身を包むことが当たり前らしい(よく知らない)。
 おなじように,中国なんかでは,ぱちものが偽物と思われていないんだろうと思われる。なので,このウルトラマンの話は当然だと感じるが,やはり音楽教室の演奏に一々著作料を払うのはおかしいと思う。

 そもそもJASRACって音楽の著作権をあつかうのだけど,音楽は作詞作曲演奏者と表現者がいろいろいるうえ,音というのは一回流して消える物ではないか。どう考えたって,演奏したらオリジナルだと思う。楽譜に著作権はつけられないだろう。いやコピーするだけで違法か。このままいくと,鼻歌を歌っただけでお金を取られかねないことになるぞ。

 ところで,ばち物だけれど,一昨日,夏なのでTシャツを3枚買った。良く行くスーパー(イトーヨーカ堂ではない)で,3枚で2000円ちょっと。安い,しかも一枚はMLBのマークが袖の処に付いていてヤンキースとマリナーズがあったのだけど,ヤンキースにした(マー君頑張れ)。これもぱち物ですよね。

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2017.07.20

いい仕事

 Good job!という意味。つまらないといわれるかも知れないが,NHKの番組はおおむねいい仕事だと思っている。祝日ごとに放送される「にっぽん紀行」など,テーマ(話題)を見つけ取材してドキュメンタリーに仕上げるまでを思い浮かべながら見てしまう。もちろん,取り上げられている人々や地域や営みというか生活じたいも素敵なので,感動してみている(音楽も泣かせるんだよね)。先日の九州の男女群島でメカジキを銛でとる漁師一家の話など,有名な白鯨みたいな世界が日本にもあるというだけですごかったし,カメラワークとかもふくめ面白かった。いい仕事してると思う。
 組織としてのNHKに対しては,いろいろいちゃもんがつけられるけれど,中で働いている人たちは,はっきりした目的意識を持ってそれぞれの役割分担を上手く運用できるように工夫したりしていかないと,こういう良い番組はできてこないと思う。いま,いろんな会社で会議とか,きっと退屈だったり,意味不明の合意のためだけに行われているような気がしてならない。みんなの手の届くところに仕事があって,そのためにどうすれば良いかを議論するなら生産的だが,無理な達成目標だの,だれが作ったか分からない資料だのを相手にして,あーだこーだ言っても始まらないと思う。そんなことが増えていやしないだろうか。
 反対に言えば,クリエイティブな仕事というのは,それぞれが具体的で不確定な物(人)を相手にしていくようなタイプの仕事ではないだろうか。想定外のものごとに直面する方が,面白くてやりがいがある。と働くのが嫌な私が想像しても意味ないか。
 

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2017.07.19

人工知能~天使か悪魔か

 先月NHKスペシャルで放送された番組(録画)を見た。面白かった。将棋の電王戦(佐藤天彦対PONANZA)が紹介される。すでにチェスも,囲碁も将棋も,コンピューターAIに人間が勝てない時代になっている。ポナンザというその将棋ソフト(AI)は過去の日本人プロ棋士の対局5万回分を教師データとして研究(解析)し,ポナンザ同士を7万回対局させて学ばせているという。人間が7万回対局するには,年に30回としてざっと2千年かかる。これでは,いくら人間の知能とは言え,負けて当たり前という気がする。第一回で先手のポナンザが打つ1手目は3八金。これは人間は絶対に打たない非定石であることを羽生名人が解説する。なるほど,そして佐藤名人はこういったコンピューターの指し手を,神の領域と表現する。
 もう一つは,タクシーに搭載されて客待予想を示す人工知能。まるで,網にかかったかのように次々にお客が現れて,ベテランの経験と勘より明らかにすごい。これも,データがNTTから提供されていて,携帯電話の利用状況などからニーズを割り出すという。こんなことは生の人間にできるわけがない。
 さらに,アメリカでは刑務所での再犯率の判定や,シンガポールだかのバスの運転士の適正判断とか,日本の電話オペレーターの人事とか,人間の査定みたいなことまでAIが使われている実体。それから,証券会社のトレーディングが今やすべてAIであること。

 株取引で動いているコンピューターのディスプレイを見ると分かるが,膨大な情報を瞬時に判断して(要するにある一定の条件にしたがって素早く計算する)答えを出す,ものすごい高性能パソコン(今や大型ではない)の時代だと言うことである。将来,人間の仕事がなくなったりして困るというが,基本的には(最終的には)機械にまかせた方が安上がりになることはどんどんAI化が進むだろう。将棋の羽生さんがコメントするのだが,その時代をAI将棋の世界が先取りしているようだ,という。

 もうすでに,コンピューターの時代であって,例えば,文章を手書きで清書していた時代だったら,こんなブログの一文だって仕上げるのに半日以上かかるだろう。銀行員だってソロバンは使わない,窓口でちょっと電卓をたたく程度。お金の計算などコンピューターそのものの仕事だろう。それでも人手がいるのが不思議なくらいである。
 そういう時代で,悪くなっていることもいっぱいある。昔のこつこつやる仕事が減ったぶん,暇になって人間関係とか人事管理とか,情報社会という面では個人情報の流失とかで気をもみ,SNSの言葉尻で傷つけ合う。子どものに限らずいじめや自殺が後を絶たないのもこんな時代だからだと思う。
 
 だから,机に座ってパソコンをたたいていないで,田舎に行って自然を相手にする方が良いのである。

 

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2017.07.15

著作権というけれど

 音楽教室で,練習のために演奏する楽曲に対して著作権料を払うかどうかがニュースになっている。著作権を守らなければならないというのは分かるが,この問題には線引き上グレーが必ずあるはずだ。死後50年とか発表後70年とかだって,恣意的なものだろう。有名なのは漱石が子だくさんで50歳で死んだから,鏡子婦人が印税収入のための著作権にこだわったという話。がめついけれど,さすがは漱石夫人というエピソードというべきか。
 自分で撮った動画をYoutubeにアップして,ちょっと試しにBGMを適当につけてみたら,たちまちこの音楽は著作権を侵害します,と運営側から指摘されて削除した覚えがある。ジャズのモーニンだったけど,まだ著作権フリーではない(確かに50年はたっていない,クラシックも演奏で分かるのかな)と改めて知った。
 この問題のために,JASRACという組織が存在しているのもわかるにはわかるが,偽物で儲けると言うんじゃなくて,一般に流布したいという目的に対しても一々目くじらたてていたら大変だろうなと思う。

 さらに,コピーというものそれ自体の問題がある。無論価格があって著作物が成り立つんだろうけれど,コピーができるから(古くは印刷技術の発達)そもそも出版物があるのである。放送局でダビングとか,映像のレイヤーとか,なしでやれるはずがない。現在学術雑誌などは多くが電子化されていネットで閲覧印刷も可能になっている。古いテレビ放送のお宝映像なんかが誰かの個人宅のVHSに残っているのが救いだったりする。2011年来地デジ化でコピーガードされているが,そういうもの自体が電脳デジタルのおかげそのものだ。やがてはお役所じゃないが,音楽はライブ配信のみ,一回見たら溶けて消える物にでもしないかぎり,著作権なんて守れないことになる。考えてみると,本は一度見たらそれきり読まないことが多いけど,音楽って何回も聞けるんだね(貸本屋というシステムがなつかしい)。

 著作権とよく似ているような気がするのだが,知的財産というものがある。これはフリーにした方が役に立つ。むろんいろんな発明にその人の努力やはたらきに見合う報酬をあげるべきだけれど,一旦できた叡智は,なんだって,そのうち人類共通の発明になる。将来人工知能になったら,人間は働がなくても良くなる(機械による生産で)はずなのだが,みんな人工知能に対しては,自分の職能という権利を脅かされると,戦々恐々としているみたいですね。

 

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本と知識

 これも,教師をしてきて思うことなのだが,一体人それぞれ持っている知識が,ジャンルも量も違っているのに,仲良く暮らしているもんだな―,ということである。近頃ではコミ障とかいって,人と上手くつきあえないことをあえて名付けたりしているが,とりあえず人ならコミュニケーションができるから生きているといえる。なので,それぞれの知識はあまり関係がない,というべきだろう。知識にこだわっているのは,私自身だと思う。

 万巻の書とか,アレキサンドリアのムセイオン(最古の図書館)とかいうように,人類にとって本は,脳的存在としてもっとも典型的な例を示す物だろう。役所の文書をさっさと破棄するなど,不正を隠すためとしか考えようがない。

 自分の蔵書の管理で分かるのだが,同じ本を2冊買ってしまったりする。なぜそんなバカなのかと言えば,記憶の量に限界があるからだと思う。逆に言えば,脳のデータ容量には限界があるので,知識を保存しておくために本を持っているのだ。
 はっきりしているのは,居室の本棚に背表紙が見えるように置いてあれば,所有している本を忘れない。ところが,押し入れにしまったり,本棚でも2列になって奥の見えないところに置いた本は,しばらくすると買った覚えすらなくなってしまうものである。また,その本が私にとって必要な知識を(データとして持っている)得るのに必要と判断して買うので,その買ったことを忘れた場合,必要であるという経験(ネットでみつけたり,本屋で買ったり,書評を見て買ったり)のどれかに複数回遭遇すると,ダブることがあるのである。これが,前回興味深いと言った,本と知識の関係である。
 
 他人が,うちに来て本棚を見てくれれば,私の脳の中身はだいたい分かってもらえると思うのだが,毎日見ているかみさんにはなかなか分かってもらえないものである。

 
 

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2017.07.13

本の始末

 歳相応に,老後(定年後)のことを考えている。年金はあまりあてにできない上に,そんなに蓄えがあるわけでもないので,何か収入の道を考えているが,上手くいくかどうかもわからない。不安がっていてもしかたがないので,できることをボチボチやっていくだけなのかと,良くいえば達観している。

 父親と同じ教師という職業で,本は普通よりは多く買っている。従姉妹の叔父さんは大学教授だったからもっと凄いらしいが,もう亡くなって10年以上たつのにまだ処分していないらしい。親父の場合で経験しているので,どんなに本人にとって値打ちがある(それは社会一般にも大切なものとだれでも思いたがるが)本でも,最後に処分するときは二束三文にしかならない。というか,おそらく古書を扱う神田の専門書店などは,そうやって研究者が死んだあとの本をただみたいに仕入れて稼いでいると思われる。でなけりゃ買う人だって限られているし,同じ研究者に売ってなんぼの商売だと,親父の本を処分したとき想像が働いた。

 普通のマンション暮らしで,スペースが限られているし,父親の経験もあるので,適当に本は(徐々に)捨てることにしている。以前は,古本屋やブックオフに持ち込んだこともある。朝日新聞のビジュアル版街道をゆくの全巻セットなら,少しは値になるかと思って持ち込んだことがあるが,ほとんど古紙同然の値段だったので,以来古紙と一緒に出すようにしている。ブックオフだって,置いてある本を見れば,みんなが読み捨てた本でしかなく,あまり欲しい本は置いてない。
 というわけで,今日もすこしスペースを空けるべく,もう開かないし,絶対必要になりそうもない(学校で教えると言うことで,ちょっとは役に立つかも知れないと思うと捨てられない)ものをだいたい40冊くらい選んだ。この捨てる本の選定の過程は,以外に頭や精神を集中させると同時に,あちゃー,という経験も多くある。で,1つは同じ本を2冊買っていたことを発見すること。それから,やっぱり捨てなければ良かった(持っていたはずなのにそのご探しまくる経験)もある。前者はほとんどアホだが,なぜそうなったかの理由を探るのも自分なりに納得したりすることで興味深い。また,今回は捨てる前にヒモでくくった背表紙をデジカメで撮っておくことにした。

 あと3年もすれば,ほとんど捨てても良い(使わなくなる)はずだが,今のところ,やっぱこの本は名著だよな―,とかこれは自分の青春そのものみたいな本だとか,まだまだ,読みたい(買って読んでいない)とかあって,そうそう捨てられないものです。

 過去に,断捨離みたいなことしたことあるけれど,とっても後悔しているので,あとすこしの辛抱ですかな。

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2017.07.10

大きな数

 自分で考えていなかったのだが,人体という宇宙よりも数的には本物の宇宙の方が少ないと言うことに気がついた。私たちのいる太陽系のような,まとまり(地球は太陽系で唯一生命が存在しているから,基本単位は地球ではなく太陽系と言えよう)は,銀河系というおよそ2000億個の恒星の集まりになっていて,その銀河系のようなまとまり銀河がいくつあるかというと,今年の初めに聞いた,すばる望遠鏡のプロジェクトリーダーのお話によると,およそ7兆個だそうである。人体の構成単位より1けたずつくらい小さいな。

 大きな数は,ヒトの脳が考える得意分野の1つではないか。だいたい1億という数字は現実に数えようがないはずである。1,2,3,4と口で言って数えて,もちろん100までとかを100万回繰り返したとして,3つで1秒として385日かかる。寝ずに数えたとしてだから1日8時間なら3年以上である。1つ数えたら1円くれると言われても,こんなことしたら気がおかしくなるかも知れない。
 実際に存在する規模,だいたい普通の(都会の)学校などに1000人くらいいるが,知りうるのは学年の半分とクラブのヤツくらいだろう。せいぜい200人程度。会社でも100人くらいまでが一緒の同僚として認識できるMAXらしい。1円玉を1億円分重ねると,1.3mm×1億で130kmである。成層圏の10倍の高度である。1万円札にしてようやくアタッシュケースに入る(1万円重ねて10m)。

 幼い頃,母親に,数はいくつまであるのかと聞いたことがある,答えは,バカねェいくらでもあるでしょ,だった。もちろん数えることができる(想像する,考える)というのは凄いことだが,実際意味があるのは,お金とか税収とかみんな比較するときだけのことである。自分と他人,人生などを比較するのは馬鹿げているのなら,数など使う必要はない。てか,大きな数そのものにたいした意味はないと言うべきでしょうね。

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資本主義とは何か

 これもまた,ユヴァル・ノア・ハラリ氏のサイピエンス全史からの受け売りなのだが,お金というものは,人間がつくった幻想ではあるものの上手く出来たシステムだという話。前にも書いたことがあるのだが,子どもの頃に,お金(貨幣および紙幣)を誰かが勝手につくれるはずはない,と思って,親に問いただしたことがある。普通の人がお金をつくったら偽造で罪になるが,日本銀行はいつどれだけ何を基準にお金を印刷しているか,という質問である。気まぐれに,勝手につくるのは,いかに日本政府であれ,問題があるだろう。おそらく,古くなったり汚くなったりしたコインや紙幣を回収して,その分だけ新しく刷り直したりするのではないかと,自分では納得して以来,あまり考えていなかった。

 だが,この頃になって,日銀総裁とかが,いわば恣意的に判断してお金を世に配布(国債を買い戻したりする際に)しているらしいと気づいた。世に出回っているお金の量をコントロールして良いんだと理解するようになった。それでも,むやみに全体の量は流通しているという(回り回る)のだから代わらないと思っていたが,さらに,そうではないと言うことにようやくハラリ氏の本で気づいた。それが,資本主義というものなのである。

 お金というのは,約束事で(古くは宝貝をお金代わりにしていたので,漢字の買うとか購入とか貝偏がつく)何でも買える,それがどこかにいっぱいある(銀行)。すると,誰かがそれを借りて(元手に)商売をはじめられるのである。で,例えば,100万円を銀行から借りて商売(店舗やら仕入れして)はじめたとする。で,儲かったら返しますから,というこの時点でその100万円は2倍に増えて200万円になっていると言うことなのである。そうなんですよ。無論失敗して返せなかったら,どっかからまた別に100万円借りてきて返すわけだけれど,それも返さなければならないなら,やはり200万円になっているのですよ。儲かって返した場合は,すでに100万円分の買い物という事物と,銀行に返した100万,という風にこれが資本主義から生まれる価値というか,生産というか,富とでもいいますか。
 
 こういう説明って,学校でちゃんとして欲しいもんですね。

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2017.07.07

人体という小宇宙

 今年は,高校の生物基礎も教えている。昔の生物に比べると内容が精選されてアホみたいに細かいことは教えなくても良くなった。染色体の連鎖と組換えとかカルビンベンソン回路の中身とか。それが「生物」だ,みたいな部分がなくなった。反対に,恒常性とか生態系とか実際的な内容に代わっている。

 昨日は,試験後の授業だったので,4月からの復習と称して生物の見方を簡単に説明した。習ったもののサイズと数の話。養老先生の受け売りでもある。

 生物学のセントラルドグマ(古いんじゃ?)が教科書に出てくる。DNAからタンパク質ができるという。それから,細胞のこと,細胞分裂のこと。染色体とDNAの関係は,昔より分かりやすい図が描かれるようになった。
 しかし,大きさのことに触れている人は少ない。DNAは分子レベルだからnm(ナノメートル),細胞は顕微鏡だから㎛(マイクロメートル)単位だ。で,細胞は10㎛位だから,DNAの約一万倍。もし,DNAのはたらきを見ることができるとしたら,イメージすると,幅1cmほどのリボンのようなものからmRNAに転写,アミノ酸が連結してタンパク質ができるというのだが,それをながめている人から見て,細胞のサイズは1万倍だから10000cm,すなわち100mである。細胞がいかに巨大なプラント設備のように見えるか,ということ。
 さらに,私たちの日常スケールと,細胞のスケールも,ほぼ1万倍の差がある。10㎛は1/100mmだから,その1万倍が10cmになる。私たちの身体の10cm四方くらいの肉塊に,細胞は10000×10000×10000個,つまり1兆個ある。もし細胞1個を直径1cmのビー玉にしたら,これが1辺100mの立方体にぎっしり詰まっているイメージ。
 
 このような,巨大な(無数のシステムからなる)生物のしくみを理解したと信じている方がおかしい,と養老先生は指摘している。大腸菌が何億だったっけ,自分の中に住んでるのだって,うちのかみさんは信じないだろう(自分はつねに清潔だと思っている)が,事実だからしかたない。普通宇宙というと,広大無辺のことだが,地球の海なんかもふくめて,生命そのものが宇宙と言ってよく,こんなことを考えても何にもならないと仏教では「空」と呼んできたのだろう。「無明」かな。

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2017.07.05

プレート境界の三重会合点

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     図はマイナビニュースから

 何度か紹介している,産総研の高橋さんが日本のプレート境界とテクトニクスに関する知見を,報道発表された。ずっと前に,この話は伺っていて(そのときとちょっと変わったけれど)大筋はそのままだ。このブログの続・日本沈没も参照して欲しい。

 プレートの境界は,ふつう2つのプレートの境で,ぶつかる(沈みこむ),離れる,すれ違う,のいずれかだ。三重会合点とは、ぶつかる境界2つがぶつかっている?(言葉で表現しずらい)。上の図に示すとおり,房総沖のフィリピン海プレートと太平洋プレートの沈みこむ場所で,これが世界に唯一だと言う事実は,不思議だが,あまり注目されることがない。
 
 高橋さん自身もこの話は難しいと言っているが,私は10年来高橋説に親しんでいるので,ずっとなるほどと思っている。以前の説は,将来(およそ100万年後)フィリピン海プレートへの負荷が,伊豆・小笠原弧が広がる境界になることで解消されて「日本沈没」。というはなしは,変更になっているみたいだが,よくわかりません。ここでの説明はひかえます。詳しくは高橋さんのホームページを見てみてください。分かりやすくしようとつくられる模型がすばらしいのです。

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2017.07.03

所得格差

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 やっぱり,世の中の様子が変わったな,と思うのは何かが起こってからだ。安倍政権の暴走ぶりは,都議会選がなかったら結局うやむやになっていたかも知れないと思うと,やや安堵。無論,小池都政などになにも期待はできないが。

 それにしても,厚労省のHPを開いて,平成25年度の日本の世帯所得(年収)を見ると,格差が進んでいるのが分かる。貧困の定義は,この中央値の1/2以下を言うんだそうだが,ざっと見積もっても全体の20%近くが貧困層と言うことになる。年収300万以下の世帯の数も,全体の33%,つまり3世帯に1世帯になる。

 もちろん,都市部ではなく地方でのくらしなら,それでもやっていけるのかもしれないが,今やほとんどの人が大都市圏に住んでいるはずで,特に若い人たちが自立するのが困難なのはうちの子どもたちを見ていても分かる。

 そして,年収が1000万とかそれ以上の世帯が多いわけではないが,どこまでも高い人たちがいる。これだから平均が上がっていて,中央値とかけ離れていることが分かる。日本人のくらしを,この平均で考えるのはとんでもないことだ。

 是非とも,大多数の日本人に,今こそあんなインチキやろうどもに政権をまかせてならない,と立ち上がって欲しい。私も何とかしたい。


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2017.07.01

ESD教育

 でたらめ書きをつづける。

 ESD(Education for Sustainable Development)とは,持続可能な開発のための教育,と訳される。2000年代にやはり環境問題への対応として世界的な教育の指針としてユネスコなどによって掲げられたものである。

 学習指導要領の約10年ごとに改訂にしたがって,やはり時々の流行が変わる。ESDは例のゆとり教育とほぼセットになって,環境学習とか総合的な学習の時間に掲げるわりと力強いお題目の1つだった。現行の学習指導要領は,そのゆとりの揺り戻しと(中学の教科書が一度ものすごく薄くなって,現在はまた急に厚くなった)道徳の教科化が改訂として盛り込まれている。今年発表された,次回(2020年代)の改訂で,理科などを読むと,やたらに,「資質・能力」を身につけさせるという文言(今までなかった)が目立つ。何だろうと思っていたが,やっと分かった。これは,お国のために命を捧げる,監視社会に適応する,資質と読むと,腑に落ちる。

 で,今思うと2011年の3.11(東日本大震災)が転換点だったのか。ESDも,2014年を期にほとんど聞こえなくなってしまった。いつの間にか,現政権の教育への戦前復帰ががらがらと音を立てて進み始めた。それと軌を一にしていることが,いろいろ見えてきたきがする。震災というガラガラポンを上手く利用してると思う。たぶんもう遅すぎます。あとは,一人一人がどう対応するかですね。

 何回か前から,政権批判をしてるつもりだけど,そのうち適当に削除します。

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2017.06.30

生物多様性

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 世の中の変化ということをつづけて考えていてる。
 
 生物学で,もっとも新しい分野は生態学だが,そのなかで2000年ころから,急にBiodiversty(生物多様性)という言葉がでてきたように思う。それまであまり聞かなかった。
 多様性というのは,いままでの科学の整理のしかたとは,ちょっと違っている。学問というものは,物事の分類,整理,統一をめざして構築されるもので,まとまりのない,意味不明な,収拾が付かない話では認めてもらえない。多様性を認める,というと,いったいどれが重要なのか本質なのか,どれでもいいんですか?ほったらかし,で良いんですか?みたいな感じがする。今まで,科学というのは要素に分解して,それを分類,整理してうまく進んできた。

 であるけれども,実際のところ自然というのは一筋縄では解明できない,めちゃくちゃ複雑な予測不能な存在であるとも言える。唯一単純なのが太陽系の天体の運行(それも楕円軌道は暦学者を悩ませたが)だったから,そこから科学が進んだわけだ。で,その傾向がいわゆる要素還元主義,物理化学的世界観である。オッカムの剃刀とかラプラスの悪魔のような考え方は,たぶん理屈っぽい小学生にでも説明すれば,良く納得するのではないだろうか。だが,この傾向は,ヒトの脳の癖であろうというのが,養老先生の指摘である。

 自然,たとえば,木に生えている葉っぱは,おそらく,大きさ形,葉脈のつきかたが,全部違うだろう。だから「違う」というべきなのに,「葉っぱ」でまとめる,以上終わり,にする。でないと,先に進まない。われわれはそうやって世界をまとめて分類して整理して片付けていく。すっきりして居心地が良いし,不安もやわらぐ。

 つまり,本来自然界は違いに満ちているのに,ヒトの脳は同じを嗜好する。それで,われわれは安心立命を保っていられる部分がある。ただ時々事実に立ち戻って検証しないと,脳の中で観念や言葉だけ一人歩きしだす。さらにわれわれがこしらえたもの,人工物や対人システムの中だけで暮らしていると,違いを徹底的になくした世界に安住しだす。自分の都合だけの世界では,弱者(子ども)は居場所を失う。
 
 敗戦後うまれのわれわれ(最近の人は,遠い終戦後生まれ,稲田防衛大臣とか)は,闇市こそなかったが,みんなそれぞれ違った考えで,民主的にやっていこうね。と教わった気がする。違いはあって当たり前,それが戦後民主主義。どういうわけか,ボーイスカウトの制服とかあれはアメリカの軍国主義,といううさんくささでながめていた。無論,科学的なものの整理のしかたとは別に違いを重んじていた。

 いつの間にやら,ものの見方,人生の方向性までもが,みんな同じになってしまったようだ。稲田防衛大臣の発言も,そうやって丸めて納めたがるのが,最近の人々の傾向らしい。

 結論を言う。地球環境にとって,いかに多様性が重要であるかが,科学的に理解されるようになった。DNAしかり,生態系しかり。単一の作物を広大な農地に作付け可能なのは,気候が安定している場合だけだ。地球は過去数万年にわたって,激しい気候変動にさらされていた。その中で,狩猟採取のみでサバイバルしてきたのがホモサピエンスであり,農耕は成り立たなかったのだ。みんな同じという反多様性主義では破滅すると思います。


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   写真は,いずれも昨年の「ラスコー展」から

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