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2005.07.29

「アースダイバー」中沢新一著 講談社刊

Syakoudogu

 縄文と弥生のつづきで,この「アースダイバー」も近ごろ話題になっている。中沢新一本人だったか,養老孟司さんの本だったかうる覚えなのだが,山梨県出身であることが縄文に結びついていて,山梨県というのは日本史上現在まで縄文時代が続いているところだと書いてあった。たしかに長野から山梨県の八ヶ岳山麓には有名な縄文遺跡がいくつかあり,歴史的には東国武士の時代に関係なく戦国時代も武田信玄一代限りで中央との関わりが薄いし,近代化の立て役者となった人の話も聞かない。あの楢山節考のモデルになった場所も山梨県にあったはずで,未開のままの土地といえば山梨県人は気を悪くするかもしれないが,そういう雰囲気は山梨の人々も自認するのではないだろうか。「カイエ・ソバージュ」のシリーズも読んだが「リアルであること」(1994年)の冒頭を読んで私はこの人を信用してみようと思った。
『ベルリンの壁が崩壊したとき,ぼくたちはテレビの映像にくぎづけになった。(中略)
不思議なことに,ぼくはあのとき以来,あんなに好きだった映画に対する興味を,急速に失った。幻想に幻想を重ね,夢に夢を重ね,意味に意味の厚みをふやしていくようにしてつくられている,すべての表現にげっそりしはじめたのだ。
 現実とのあいだに,たくさんのお金をかけて,新しい魅力的なベールをつくりだすことよりも,すがすがしい朝の空気のような,薄い透明な層だけをとおして,リアルに触れていたい。(中略)そのときに現われてくる世界の裸のからだに,素手で触れて,それをなでたり,さすったりしてみたい。それがあのベルリンの壁の崩壊や,ソ連の解体とともにはじまった,九○年代の精神ではないのだろうか。
 ところが,あれから数年たってみると,ぼくたちをとりかこんでいる世界には,あいかわらずリアルは立ちあらわれてこないし,いたるところに,ますます厚い観念のベールが,はりめぐらされるようになっているのに気がつく。たしかにイデオロギーは消えた,しかし,それが消えた分,今度はぼくたちの意識を,リアルに直接接触させまいとする,別のメカニズムが作動しだしているのだ。(以下略)。』
 このあとに起こってきたオウムとか9.11のビルの崩壊をそれまでのリアルとは別の意味をもった真実(あまりにも馬鹿げた現実)として受け入れざるをえなくなったこととつなげてみることができる。世界はある原理にのっとって進むべき方向に進んでいるという,近代合理主義的とかグローバリズムへの背反も,別のある原理(オウム真理教とかイスラム主義のようなイデオロギー)から発生していることのへの絶望的な状況がつづく中で,もっとシンプルで誰とでも分かり合えるような(ユングの集合的無意識のような)世界を掘り起こすことが中沢新一の仕事なのだと思う。
 世界の神話やおとぎ話(シンデレラなども)に人類の普遍性をさぐるのはとても正しい方法だと思う。その一応の仕事に区切りをつけて,足もとの東京という土地にさえ縄文の無意識が潜んでいる,というのが「アースダイバー」であろう。東京の地形は隆起を続けている西側の台地と,氷期の海面低下によってできた細かい谷地形がその後の海進(縄文時代の温暖期)にともなって埋め立てられた低地からなっている。http://homepage1.nifty.com/tsoutaro/vistapro/toukyou.htm
このコントラストが東京に住む人の営みにどんな影響を与えてきたかは,それこそさまざまに確固としてあるだろうが,民俗学的な知識を縦横に人や物の深層(エロタナ)と結びつけるのが実にうまい。東京には皇居という象徴的な森があることが,最後の望みをつなぐと主張している(ネタばれなのであとはお読み下され)。

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