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2006.01.04

「世間」と自分

 学校で学んだ,英語の一人称は言うまでもなく“I”(アイ)でこれ1つしかない。しかし,日本語の一人称は私,わたくし,自分,僕,俺,おいら,うち,小生などといくつもある。養老さんはつづけて言う。関西では「自分,にんじん嫌いやろ」などと,自分があんた,すなわち”YOU”の二人称になったりする。けんかのときに相手のことを「テメー」というがこれは「手前」であって,これも自分がお前になる例である。侍の「おのれ」も同じ。要するに,日本語の一人称と二人称は数が多く,それも入れ替わったりすることから,あまり厳密なものではない,適当に使ってかまわない,すなわちいい加減なものであるという。
 要するに,日本では「自分」というのが,きわめて曖昧なものととらえられる。明治以降導入された,近代的自我というものが自由なセルフとしての「自分」と思って(考えている)が,もともとそんなものは日本にはない。かつてあったのは何々「家」や○○「村」の誰それ,であろう。だから,日本語の名前というのは姓名の順で,英語のようにファーストネームがはじめに来ない。欧米でも社会的な立場を明らかにするときには,生身の個人ではなくて,血筋の方が確かなのであろう。アメリカの大統領をジョージとはいわず,ブッシュという。なにしろ,日本では襲名という,伝統的な家業(茶道,華道,歌舞伎など)では,名前さえも肩書きと同じような意味をもつ場合がある。つまり,人の存在意義を「自分」が規定するのではなく,あくまで社会的立場,これを日本では昔から「世間」というが,によって決まるのが日本だったのである。養老さんは,以前から「名刺」には肩書きを印刷しておき,「名前」はゴム印で肩書きのわきに押せば良いと言っている。確かにそうだ。
 個人というものが人間の基本単位になると考えるのが普通だが,共同体のなかでは,案外役割としての自分というものがあって良く,「個性的」なんて言うのはかえって役に立たない。そういう「世間」というもので成り立っているのが,どこにも書いていないし誰も言わないけれど日本のやり方なのである。それが封建的だと言おうが,機能的にはうまいやり方であり,「会社人間」や「滅私奉公」は戦後の新憲法でも完全には消えないのである。「日本的」といわれるものの根本はここにある。
 さらに,英語の”I can speak Japanese”といった言い方には“I”という主体がはっきりある。こういう言葉をいつも使っていれば,「主体的な自己」はあったりまえの世界になる。一方,日本語では,しばしば一人称ぬきでも話が通じる。誰がやったかはあまり重んじられないのである。無責任といえば無責任である。このように日本に住んで日本語を話しているかぎり,西洋の近代的自我などというものは,身に付かないということになる。漱石を悩ましたのは,この世間と近代的自我の間にある問題であるということが,はっきりしてくるのではないだろうか。

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