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2006.01.06

養老孟司「身体の文学史」から

 はじめての海外旅行でロンドンへ行ったとき,街の造作や商店の形式が,まるで東京の銀座あたりと変わらないことに気づいた。外国に来たという気がしないのだが,考えてみれば日本がこれを真似ただけなのだ,と思ったとき,とても情けなくなった。明治の西欧化が日本にもたらしたもの,などと言うが,もたらしたなどと,さも主体的な日本があるように言ってはいけない。全部真似した,そっくり入れ替えて,それまでの日本の,養老さん風にいえば,歴史を消したというべきではないか。日本の歴史では,これを文明開化と言って済ますが,よく考えてみれば内からの植民地化みたいなものじゃないのだろうか。この変わり身の速さが,この国のきわめて変な特質であることを,もっと知っておいた方が良いと思う。これが「無思想」という日本の「思想」ということになるが,それはおく。
 それで,いち早く近代化したことが間違っていると言うつもりもない。しかし,これがきっかけで日本人の奇妙な自分探しが始まったということも考えてみる必要があると思うのである。
 端的に,養老さんの言っていることを解説しよう。自分とは何か。それはその人の「心」ではなく「身体」なのである。現在の日本人でもっとも個性的な人,イチロー,松井等々ではないか。自分が考える自分というものは,考えれば考えるほど「点」のようなものでしかない。どうしてかと言えば,考えるのが脳のくせであり,「心」なんて言うのは自分の意識が(脳が)つくりだしているものだからである。それを出力するのは,身体であり,出力されたとして,それが他人に分かるとき,別に面白くも何ともないはずのものだからである。他人に分かる「心」なら,自分と「同じ」ではないか。分からない場合,その人はおかしな人(変人または精神病者)であろう。同じである以上,「心」に個性というのはない。したがって,他人から見て,自分の特徴(自分とは何かという自分探しの自分)を示せるものは,身体しかない。身体的な表現が際だっていれば,他人が「すごい」と認めるのである。自己という個としての自分を他人と区別するものは,身体でしかありえない。
 自己から見た自分以外に自分はあるか。すでにふれたように,「社会的な自分」,「世間」的な自分,というのがある。それを消したのが明治維新だったのであり,どうであれ消された自分を,ご丁寧に過去の封建的なものを否定しつつ,取り戻そうとしたのが,明治大正の日本文学が生み出した,面白くも何ともない「私小説」だった,というお話でした。

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