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2009.06.07

世間と科学

養老さんも言っているように,世間から科学にコミットメントが求められるご時世になった。温暖化予想の話のつづきである。本来,科学は,ある閉じた系として成り立っているものである。おそらく,それじゃダメじゃん,と多くの人は思うであろう。科学は現代文明の豊かさをもたらしたのだから,われわれは「ラララ科学の子」で当然,科学なしの生活はあり得ないくらいに思うのだろう。しかし,科学の恩恵というのは,正確に言うと「科学技術」のことである。科学と技術はサイエンスとテクノロジーの違いで,テクノロジーはやはり,応用でお金になるような話なのだ。例えば,ミサイルは二ユートン力学の原理にそって飛ぶが,ニュートンがミサイルを作った訳ではないということだ。ところが,北朝鮮がミサイルを打ち上げたのは二ユートンがいたからだと言われかねない,時代になったということである。いろいろものごとには範疇というものがあるのに,それを飛び越えてすぐに結びつけたり,因果関係をもとめたりする。現に,温暖化の原因は「分からない」という答えが,許されないのは科学に対する責任の要請だもの。
私は,理学部を出たので分かっているつもりである。となりにちゃんと工学部が別にあったから。理工学部というのは経営上の都合だろうけれど,私も,理工学部を出ていたら一般企業に就職できたかもしれない。昔は数学が好きな人間は理学部数学科に進もうとした。就職のことなんか考えていたかどうか。とにかく,学問は学会誌と研究者からなる枠組みとしてあり,もちろんはじめから人助け(医学)や金儲け(バイオテクノロジーなど)につながる研究もあるけれど,世間や世論や政治や経済とはレベルがちがう純粋な存在としてあるはずだった。こういう世間と科学のコラボレーションみたいなことが進むのはどうなのか。以下も,養老さんの受け売りに近い。
まず,大学の学部がよく分からない。環境とか情報とか都市(国際,コミュニケーション)とかがつく学部が増えた。まあ,大学自体も増えたのだろうが,そういう学部学科で伝統的な学問がなされているのか少なからず疑問だ。新しけりゃいいものでもないだろうと思う。
私の身近な例でいうと,そういう大学を出た先生が増えた。けちをつけたくはないが,本当に何も知らない。悩みから生じる深みがない。経験から生じる広がりがない。頭に来たから言っている。先生と言えば,理科や数学なら理学部,国語や歴史なら文学部であってほしいと私は思う。私の高校時代の先生たちはほとんどみんなそうだったが,それは今や無理である。
これは,一種のオタク論かもしれない。岡田斗司夫が死んだという「オタク」とダブる。世間では役に立たないことに熱中することを,とりあえずほったらかしてくれていた。科学という学問の世界は,世間とは隔絶した孤高の世界であるが故に,その成果がやがて意味をもってくるのである。自然界の成り立ちを,純粋に自然界の成り立ちとして見る目をもつことが科目としての理科であり,学問としての科学である。浮世離れというのは褒め言葉か。子どもにとって,何に凝ろうが勝手だった時代が去ったとしたら悲惨である。いじめで追い込まれて自殺する前に,閉じこもる世界がないのだ。
純粋な,「役立たずのろくでなし」を残しておかないと息苦しくなるばかりだと思うのは私だけでしょうか。忌野清志郎の「ぼくの好きな先生」はちょっと長生きしすぎのような気もするけれど,久しぶりに世間に思い出されて良かったと思う。

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