
世の中の変化ということをつづけて考えていてる。
生物学で,もっとも新しい分野は生態学だが,そのなかで2000年ころから,急にBiodiversty(生物多様性)という言葉がでてきたように思う。それまであまり聞かなかった。
多様性というのは,いままでの科学の整理のしかたとは,ちょっと違っている。学問というものは,物事の分類,整理,統一をめざして構築されるもので,まとまりのない,意味不明な,収拾が付かない話では認めてもらえない。多様性を認める,というと,いったいどれが重要なのか本質なのか,どれでもいいんですか?ほったらかし,で良いんですか?みたいな感じがする。今まで,科学というのは要素に分解して,それを分類,整理してうまく進んできた。
であるけれども,実際のところ自然というのは一筋縄では解明できない,めちゃくちゃ複雑な予測不能な存在であるとも言える。唯一単純なのが太陽系の天体の運行(それも楕円軌道は暦学者を悩ませたが)だったから,そこから科学が進んだわけだ。で,その傾向がいわゆる要素還元主義,物理化学的世界観である。オッカムの剃刀とかラプラスの悪魔のような考え方は,たぶん理屈っぽい小学生にでも説明すれば,良く納得するのではないだろうか。だが,この傾向は,ヒトの脳の癖であろうというのが,養老先生の指摘である。
自然,たとえば,木に生えている葉っぱは,おそらく,大きさ形,葉脈のつきかたが,全部違うだろう。だから「違う」というべきなのに,「葉っぱ」でまとめる,以上終わり,にする。でないと,先に進まない。われわれはそうやって世界をまとめて分類して整理して片付けていく。すっきりして居心地が良いし,不安もやわらぐ。
つまり,本来自然界は違いに満ちているのに,ヒトの脳は同じを嗜好する。それで,われわれは安心立命を保っていられる部分がある。ただ時々事実に立ち戻って検証しないと,脳の中で観念や言葉だけ一人歩きしだす。さらにわれわれがこしらえたもの,人工物や対人システムの中だけで暮らしていると,違いを徹底的になくした世界に安住しだす。自分の都合だけの世界では,弱者(子ども)は居場所を失う。
敗戦後うまれのわれわれ(最近の人は,遠い終戦後生まれ,稲田防衛大臣とか)は,闇市こそなかったが,みんなそれぞれ違った考えで,民主的にやっていこうね。と教わった気がする。違いはあって当たり前,それが戦後民主主義。どういうわけか,ボーイスカウトの制服とかあれはアメリカの軍国主義,といううさんくささでながめていた。無論,科学的なものの整理のしかたとは別に違いを重んじていた。
いつの間にやら,ものの見方,人生の方向性までもが,みんな同じになってしまったようだ。稲田防衛大臣の発言も,そうやって丸めて納めたがるのが,最近の人々の傾向らしい。
結論を言う。地球環境にとって,いかに多様性が重要であるかが,科学的に理解されるようになった。DNAしかり,生態系しかり。単一の作物を広大な農地に作付け可能なのは,気候が安定している場合だけだ。地球は過去数万年にわたって,激しい気候変動にさらされていた。その中で,狩猟採取のみでサバイバルしてきたのがホモサピエンスであり,農耕は成り立たなかったのだ。みんな同じという反多様性主義では破滅すると思います。

写真は,いずれも昨年の「ラスコー展」から
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