地理・歴史

2018.07.27

「縄文人の死生観」山田康弘著、角川ソフィア文庫

513qzatlvl_sx350_bo1204203200_ ジュンク堂で見つけた文庫の新刊(「死と生の考古学」の文庫化)を読んだ。いま東博で開催中の縄文展をはじめちょっとした縄文ブームになっているようで、NHKも歴史秘話ヒストリアなどで関連番組をやっています。このブログでも縄文について何度か書いていて→縄文VS弥生縄文時代北八ヶ岳へ。話は前回の「万引き家族」のつづきになる。この本は縄文時代の墓(埋葬)について書かれた本です。でそれが、万引き家族で、家族の住む縁の下に埋葬された、樹木希林と同じなのです。縄文人は死者を集落の中心や貝塚(祭祀的な場)に埋葬していたんです。また、当時は多かった死産や妊産婦と幼児の死に対する特別な死生観、再生観があったと考えられているという話。土偶はほとんど女性をかたどったもので、子供が死ぬと遺体を土器にいれて埋葬していたなど。

 著者は、最後に縄文人の思想が、現代人と乖離しているが、むしろ我々現代人の考え方を見直すべきではないかと述べていて、同感です。ホモ・サピエンスはもともと狩猟採取に適応して進化したものであって、10万年単位では身体性に基づいた生活が基本であるという(養老先生とおなじ)話になっています。
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八ヶ岳山麓北杜市考古資料館の再生を象徴する土器(2015年11月に訪れたとき)これいま引っ張りだこのようです。


 詳しい話は本に譲るとして、いつも星見で通っている八ヶ岳山麓は、改めて縄文の宝庫といった場所だなと思いました。

2018.01.02

武蔵と相模

 正月実家に帰った帰りに、多摩市の小野神社(聖蹟桜ヶ丘駅徒歩6分)に行った。一之宮という地名は、普通にありそうであるが、実は諸国に各一つづつしかない。多摩の一之宮と言えばこの小野神社のある場所であり、ここが武蔵の国の一之宮なのである。が、それにしてはちっぽけな神社だ。通常、武蔵一之宮は、大宮の氷川神社とされていて、これは大きい。相模一之宮の寒川神社も大きい。なぜ?という疑問がわく。

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いろいろグーグルでググってみると、やはりこちら(多摩)が正統の一之宮のようである。江戸時代以前(中世)を考えると、地域的に鎌倉道、聖蹟桜ヶ丘の地名は関戸で、ここで鎌倉街道が多摩川を渡っている。で昔の武蔵国は、多摩丘陵の南西がわまで(町田市から境川の東側)であったことなどを見ると間違いない。たぶん洪水などで何度か流されてしまって、江戸時代に衰退してしまったのではないかと思われる。

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昔から多摩に住んでいるものとして、誇らしいのであるが、例えば二子玉川も渡しであり、今は246が通っているがこれは昔(鎌倉時代)の日光街道であるらしい。東海道というのは、新しいのである。東京というのは、やはり家康以降の土地で、中世には、鎌倉や金沢八景(六浦)あたりで京都からの用は足りていて、千葉の安房とか下総とか常陸のようなところには海をつたって行ったのではないだろうか。

 平坦な沖積低地は、田んぼではいいが、しばしば水害で流されるので、ブラタモリ的に高低差が重要で、小高い段丘や、自然堤防の上には昔の遺物が残っている。そういう目で神社仏閣を中心に街歩きをするのは楽しいだろうと思った。

グーグルマップで出てくる一之宮の地名の分布→
さいたまは、氷川神社
KANAGAWAのところは寒川神社
その中間が小野神社

2017.06.30

生物多様性

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 世の中の変化ということをつづけて考えていてる。
 
 生物学で,もっとも新しい分野は生態学だが,そのなかで2000年ころから,急にBiodiversty(生物多様性)という言葉がでてきたように思う。それまであまり聞かなかった。
 多様性というのは,いままでの科学の整理のしかたとは,ちょっと違っている。学問というものは,物事の分類,整理,統一をめざして構築されるもので,まとまりのない,意味不明な,収拾が付かない話では認めてもらえない。多様性を認める,というと,いったいどれが重要なのか本質なのか,どれでもいいんですか?ほったらかし,で良いんですか?みたいな感じがする。今まで,科学というのは要素に分解して,それを分類,整理してうまく進んできた。

 であるけれども,実際のところ自然というのは一筋縄では解明できない,めちゃくちゃ複雑な予測不能な存在であるとも言える。唯一単純なのが太陽系の天体の運行(それも楕円軌道は暦学者を悩ませたが)だったから,そこから科学が進んだわけだ。で,その傾向がいわゆる要素還元主義,物理化学的世界観である。オッカムの剃刀とかラプラスの悪魔のような考え方は,たぶん理屈っぽい小学生にでも説明すれば,良く納得するのではないだろうか。だが,この傾向は,ヒトの脳の癖であろうというのが,養老先生の指摘である。

 自然,たとえば,木に生えている葉っぱは,おそらく,大きさ形,葉脈のつきかたが,全部違うだろう。だから「違う」というべきなのに,「葉っぱ」でまとめる,以上終わり,にする。でないと,先に進まない。われわれはそうやって世界をまとめて分類して整理して片付けていく。すっきりして居心地が良いし,不安もやわらぐ。

 つまり,本来自然界は違いに満ちているのに,ヒトの脳は同じを嗜好する。それで,われわれは安心立命を保っていられる部分がある。ただ時々事実に立ち戻って検証しないと,脳の中で観念や言葉だけ一人歩きしだす。さらにわれわれがこしらえたもの,人工物や対人システムの中だけで暮らしていると,違いを徹底的になくした世界に安住しだす。自分の都合だけの世界では,弱者(子ども)は居場所を失う。
 
 敗戦後うまれのわれわれ(最近の人は,遠い終戦後生まれ,稲田防衛大臣とか)は,闇市こそなかったが,みんなそれぞれ違った考えで,民主的にやっていこうね。と教わった気がする。違いはあって当たり前,それが戦後民主主義。どういうわけか,ボーイスカウトの制服とかあれはアメリカの軍国主義,といううさんくささでながめていた。無論,科学的なものの整理のしかたとは別に違いを重んじていた。

 いつの間にやら,ものの見方,人生の方向性までもが,みんな同じになってしまったようだ。稲田防衛大臣の発言も,そうやって丸めて納めたがるのが,最近の人々の傾向らしい。

 結論を言う。地球環境にとって,いかに多様性が重要であるかが,科学的に理解されるようになった。DNAしかり,生態系しかり。単一の作物を広大な農地に作付け可能なのは,気候が安定している場合だけだ。地球は過去数万年にわたって,激しい気候変動にさらされていた。その中で,狩猟採取のみでサバイバルしてきたのがホモサピエンスであり,農耕は成り立たなかったのだ。みんな同じという反多様性主義では破滅すると思います。


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   写真は,いずれも昨年の「ラスコー展」から

2016.11.03

ほったらかし温泉

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 西沢渓谷のあと,疲れた足のマッサージでもと,山梨市のほったらかし温泉に寄った。先週戦場ヶ原の帰りの車で朝のラジオを聞いていたら話題にしていたので知ったのだ。なんともずぼらな名前でその名の通りの温泉施設だった。塩山の近くということで偶然行く機会ができたわけだが。

 山梨県(甲府や塩山)の観光地というとブドウやワイン,武田信玄ゆかりの地,昇仙峡,石和温泉くらいだが,新たな新名所と言って良いかもしれないぐらい。富士山と御坂山地から大菩薩の山並み,塩山の市街を見下ろす絶景巨大露天風呂である。ほぼ山の頂上という場所に,推定1000坪弱くらいの露天風呂が無造作(風情とか清潔さとか無縁に)に作られているのである。入浴料金800円というのも絶景代からすれば安いと思う。信じられないのだが,地理院の地図には,この場所に逆さクラゲ(温泉マーク)がちゃんとあるのである。沸かし湯ではあると思うのだが,それでもこの開放感は半端ではない。まだの方は是非お薦めです。

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塩山駅の北にある小高い山は,平地にぽっかり置かれた小山で,その名も塩山の地名のもとになった「塩の山」ということを知った。カシミールで山名を確かめられるが,有名な雁ヶ腹摺山は見えないようだ。

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   画像をクリックすると拡大します。

2016.08.01

箱根の石畳

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 100年以上前には、鉄道も車もなかった。それでも人々は江戸や京都を行き来していたのが不思議といえば不思議。というか、それが事実だとして、我々がいかにへなちょこな人生を送っているかということである。

 というわけで、箱根八里を体験すべく、旧道を踏破(といっても歩ける範囲)を温泉に1泊しながら歩いてみた。はっきり言うが、私は天下の嶮を舐めていた。無論、当時の道はほとんど残されていない(それも確認)。石畳といういうが、こんな凸凹な急坂道を、女子供や馬も通ったのかとおもうと、相当な覚悟でなければ江戸と上方を行き来なんてできない。

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 翌日は、湯坂道という鎌倉時代の道を箱根湯本まで下ったが、なだらかではあるものの距離が長く、いまだ(2日後)筋肉痛に悩まされている。夏休みだというのに、歩いている人の少なさも、道の整備も悪く、古(いにしえ)の人々の気持ちを理解していないことが明らかで腹立たしかった(←思ったより疲れただけです)。

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浅間山へ登る途中から、2年前に登った金時山がみえる。昨年は、ここまで大平台から登ったりしている。あとは大涌谷から神山、駒ケ岳のルートを早く開通してもらえたらいいのになと思っている(火山警戒で立ち入り禁止)。

2016.07.25

続・秀吉と地震

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 昨日のNHK真田丸で,慶長伏見地震が描かれていた。地震の前に京都に灰が降ったという場面もあって,前に時代考証などいい加減だと指摘したが,結構史実を掘り下げているようで,先の印象を訂正しておきたい。地震加藤が出てこなかった,が,ウィキペデイアによれば,地震加藤というのは,歌舞伎の演目として創作されたもので,これこそ史実ではないそうである。こちらの過ちを訂正します。
 
 NHKBSで放送している,「英雄たちの選択」という番組も歴史を掘り下げていて面白いので録画してよく見ている。先だっては,加藤清正が関ヶ原に参加したら東西どっちについたかと言う話で,そういえば清正の名前が関ヶ原の合戦にないことにいまさら気づいたり。清正がもう少し長生きしたら,九州の大名たちを束ねて,西日本を支配していたかも,とか歴史の面白いイフを示してくれる番組だ。見逃してしまったのだが,天正地震がもし起こっていなかったら家康は秀吉に滅ぼされていたかもしれない,という見解も注目である。

 こうやって,歴史のIf(もしも)が超たくさんあって(地球の誕生や生命の歴史でも)こうやって今いるんだなーと思うと,これからどんなことが起こるのかも,不安ながら楽しみ(面白さ)となるものです。

2016.07.15

大絶滅時代とパンゲア超大陸(絶妙な地球環境について)

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 知れば知るほど,思いをめぐらすのだが,我々と地球の存在は奇跡的である。この説明を簡単にするのはしょせん無理だが,それがこの同級生(しばらく会っていない)が翻訳した本を読んだ感慨である。重要なのは生命を含む(プレート運動があるから,それも奇跡的)地球がもつ大気と海の組成とバランスだろうか。大気圧と酸素の濃度,海水の塩分濃度,気温,降水と物質循環,これらの物理的化学的用件が地球というシステムとして,我々のような生命の存在を可能ならしめているのだが,そこには下手なレベルの科学的知識では解き明かせない,壮大な地球の歴史変遷をも組み込まなければ,その全貌を示すことはできない(今だ,明らかになってはいない)ということ。

 およそ2億5000万年前の古生代と中生代の境界をしめす生物の大量絶滅が上記の本のテーマだが,現在の大筋の仮説は,シベリアトラップとよばれる大量の溶岩噴火(洪水玄武岩)による大気中の二酸化炭素増加とその後の環境変動(超温暖化と海洋無酸素)が原因と言われている。その推定されるCO2の増加量は,現在の産業革命以来の人為的な排出量と同程度だという。ただし,もとの大気中のCO2量が今の数十倍,陸地が超大陸パンゲア1つで,海岸線の長さや浅海の面積,炭素を固定するプランクトンの種類が今とは違っていたのが災いしたのだという。
 過去,大気の酸素濃度も大幅に変動していたし,現在CO2が0.04%でしかない(人為的な増加が半端ないのに植物や海が吸収)のも,人間がこさえた緩衝作用ではないことを知ると,神様を拝みたくなるのでした。

2016.04.18

秀吉と地震

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 ブラタモリの熊本城や熊本の回を見て,4月に入ったら熊本の地震である。活断層による直下型地震で,ブラタモリでは活断層は出てこなかったが,日本中の数ある活断層のなかで,いつ動いてもおかしくない断層が動いた。それほど活断層に詳しいわけではないが,ここにもあったのか,という感慨を覚える。しかも,あの熊本城の石垣が崩れている映像をテレビで見せられると,加藤清正があの世でどんな思いでいるかと感情移入さえしてしまう。
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 古地震学は,これまた一般的ではないかもしれないが,地質調査所で長く研究されてきた寒川旭さんの「秀吉を襲った大地震」(平凡社新書)が俄然脚光を浴びる(マイブーム的に)。この本を読むと,今回の地震は,プレート海溝型地震にある連動型地震のように,かつて西日本を襲った活断層連動型地震が再び起こるのではないかという話が浮かび上がるのだ。

 我々,20世紀後半から今の地震体験と言えば,1995年の阪神淡路大震災と3.11東日本大震災,これでも充分悲惨かもしれないが,秀吉の時代もすごかった。戦国時代の終わり近く1586年の天正13年に発生した富山岐阜,近畿東部までもを襲った天正地震,秀吉が天下人になって後の1596年(慶長元年)に大仏を壊し,できたての伏見城天守を崩した伏見地震,関ヶ原の戦いの後の1605年(慶長9年)の東南海津波地震まで。わずか20年間に3つの大地震が集中している。なかでも,天正地震に驚いた秀吉が,これを琵琶湖の鯰の仕業としたことが,地震と鯰の伝説をうみ,朝鮮で暴れすぎた清正が伏見地震でいち早く秀吉を見舞って,地震加藤の異名をとったこと。など,戦国動乱の歴史に「地震」が深く関わっていたことを知るトリビアな本である。しかも,伏見地震の3日前には,今回の地震の北東部の延長にあたる,別府湾で大地震が発生し(慶長豊後地震),四国の中央構造線沿いに400kmの区間で連続的に地震が起こっていたという。これと同じことになりはしないか思うのは,知識があればこそである。
 無論,当時の震源や地震の規模がどのくらいかは推定の域を出ないが,液状化の痕跡を考古遺跡の発掘にもとめ,それを手がかりに解き明かそうとする寒川さんの手法と姿勢には頭が下がるとしか言いようがない。同じような例は,幕末にもあり,また奈良平安時代も大地動乱の時代だっことは,もっと一般に知らしめるべきだと,今回をつうじてあらためて考えたことであるよのう。


2015.11.14

縄文時代

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 昔,有名な考古学遺跡と言えば,登呂遺跡(弥生時代の米作り)だったような気がする。あるいは,岩宿遺跡(旧石器時代)。あんまり縄文時代は注目されていなかった。唯一評価していたのは岡本太郎かもしれないが,岡本に対して普通の人はあんまり好意的なイメージを持てないという面もある。無論,青森県の三内丸山遺跡が有名になったが,縄文は,長い間どっちかというと洗練されていない未開の狩猟採集民のイメージだったと思う。先週八ヶ岳へ星見にでかけ(雨で星は見られず,この天候不順はもうまったくエルニーニョの影響),帰りに北杜市の考古館を訪れたら,たまたま土偶展をやっていた。のと,日曜日にまたNHKの番組なのだが,アジア巨大遺跡というシリーズで,縄文時代を再評価していたのを見た。一昨年,三内丸山と亀ヶ岡遺跡を東北旅行でまわったし,このブログでも前に縄文VS弥生に触れた。あるとき,気づいたのだが,日本の弥生時代と古墳時代は記録がないから考古学になるだけのことで,世界史から見れば,文字の時代であり,卑弥呼とかほとんど歴史時代(AD紀元後)の話である。そして,およそ6000年前から紀元前までの縄文時代は,それよりずっと長い時代だということ。しかも,三内丸山などは数千年間もそこに定住していたというから,考えてみると気が遠くなってくる。
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 遺跡をみるといつも思うのは,かつてこの場所で生活していた人たちは,いつどんな理由でここに住むのをやめて,放棄して誰も住まなくなったのか,ということだ。しかし,逆に言えば,長く定住していた縄文遺跡は平和と繁栄の象徴かもしれないと思い始めた。同様に,謎なのは,いつだったか,近くの相模原にある,田名向原遺跡を見学したが,旧石器時代,いろいろな場所で採掘された黒曜石(信州和田峠,伊豆七島の新島など)が,日本中に広まっているということ。このことは縄文時代も続いていて,ひょっとしてすでに街道筋みたいなものまであったのかと思ってしまう。最近の人間は,今が進んだ文明だと勘違いしていて,なんにもそんなに昔と変わっていないか,むしろ昔の方が人間はずっと賢かったのかもしれないと思う。蛇足だが,NHKの洞窟おじさんは現代に生きた狩猟採集民として,とても面白かったし,私は文明批評が昔から大好きなのです。
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          北杜市考古資料館の中空土偶

2015.09.23

アイスランドへ

2006年に(株)花王の教員フェローシップ研修で,アイスランドに行った時の報告書がネット上でPDFになっているのでリンクを張っておく。約1週間の研究ボランティアに参加したときのもの→「アイスランドの氷河」Skaftafell


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