哲学・文学

2017.07.10

大きな数

 自分で考えていなかったのだが,人体という宇宙よりも数的には本物の宇宙の方が少ないと言うことに気がついた。私たちのいる太陽系のような,まとまり(地球は太陽系で唯一生命が存在しているから,基本単位は地球ではなく太陽系と言えよう)は,銀河系というおよそ2000億個の恒星の集まりになっていて,その銀河系のようなまとまり銀河がいくつあるかというと,今年の初めに聞いた,すばる望遠鏡のプロジェクトリーダーのお話によると,およそ7兆個だそうである。人体の構成単位より1けたずつくらい小さいな。

 大きな数は,ヒトの脳が考える得意分野の1つではないか。だいたい1億という数字は現実に数えようがないはずである。1,2,3,4と口で言って数えて,もちろん100までとかを100万回繰り返したとして,3つで1秒として385日かかる。寝ずに数えたとしてだから1日8時間なら3年以上である。1つ数えたら1円くれると言われても,こんなことしたら気がおかしくなるかも知れない。
 実際に存在する規模,だいたい普通の(都会の)学校などに1000人くらいいるが,知りうるのは学年の半分とクラブのヤツくらいだろう。せいぜい200人程度。会社でも100人くらいまでが一緒の同僚として認識できるMAXらしい。1円玉を1億円分重ねると,1.3mm×1億で130kmである。成層圏の10倍の高度である。1万円札にしてようやくアタッシュケースに入る(1万円重ねて10m)。

 幼い頃,母親に,数はいくつまであるのかと聞いたことがある,答えは,バカねェいくらでもあるでしょ,だった。もちろん数えることができる(想像する,考える)というのは凄いことだが,実際意味があるのは,お金とか税収とかみんな比較するときだけのことである。自分と他人,人生などを比較するのは馬鹿げているのなら,数など使う必要はない。てか,大きな数そのものにたいした意味はないと言うべきでしょうね。

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2017.06.30

生物多様性

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 世の中の変化ということをつづけて考えていてる。
 
 生物学で,もっとも新しい分野は生態学だが,そのなかで2000年ころから,急にBiodiversty(生物多様性)という言葉がでてきたように思う。それまであまり聞かなかった。
 多様性というのは,いままでの科学の整理のしかたとは,ちょっと違っている。学問というものは,物事の分類,整理,統一をめざして構築されるもので,まとまりのない,意味不明な,収拾が付かない話では認めてもらえない。多様性を認める,というと,いったいどれが重要なのか本質なのか,どれでもいいんですか?ほったらかし,で良いんですか?みたいな感じがする。今まで,科学というのは要素に分解して,それを分類,整理してうまく進んできた。

 であるけれども,実際のところ自然というのは一筋縄では解明できない,めちゃくちゃ複雑な予測不能な存在であるとも言える。唯一単純なのが太陽系の天体の運行(それも楕円軌道は暦学者を悩ませたが)だったから,そこから科学が進んだわけだ。で,その傾向がいわゆる要素還元主義,物理化学的世界観である。オッカムの剃刀とかラプラスの悪魔のような考え方は,たぶん理屈っぽい小学生にでも説明すれば,良く納得するのではないだろうか。だが,この傾向は,ヒトの脳の癖であろうというのが,養老先生の指摘である。

 自然,たとえば,木に生えている葉っぱは,おそらく,大きさ形,葉脈のつきかたが,全部違うだろう。だから「違う」というべきなのに,「葉っぱ」でまとめる,以上終わり,にする。でないと,先に進まない。われわれはそうやって世界をまとめて分類して整理して片付けていく。すっきりして居心地が良いし,不安もやわらぐ。

 つまり,本来自然界は違いに満ちているのに,ヒトの脳は同じを嗜好する。それで,われわれは安心立命を保っていられる部分がある。ただ時々事実に立ち戻って検証しないと,脳の中で観念や言葉だけ一人歩きしだす。さらにわれわれがこしらえたもの,人工物や対人システムの中だけで暮らしていると,違いを徹底的になくした世界に安住しだす。自分の都合だけの世界では,弱者(子ども)は居場所を失う。
 
 敗戦後うまれのわれわれ(最近の人は,遠い終戦後生まれ,稲田防衛大臣とか)は,闇市こそなかったが,みんなそれぞれ違った考えで,民主的にやっていこうね。と教わった気がする。違いはあって当たり前,それが戦後民主主義。どういうわけか,ボーイスカウトの制服とかあれはアメリカの軍国主義,といううさんくささでながめていた。無論,科学的なものの整理のしかたとは別に違いを重んじていた。

 いつの間にやら,ものの見方,人生の方向性までもが,みんな同じになってしまったようだ。稲田防衛大臣の発言も,そうやって丸めて納めたがるのが,最近の人々の傾向らしい。

 結論を言う。地球環境にとって,いかに多様性が重要であるかが,科学的に理解されるようになった。DNAしかり,生態系しかり。単一の作物を広大な農地に作付け可能なのは,気候が安定している場合だけだ。地球は過去数万年にわたって,激しい気候変動にさらされていた。その中で,狩猟採取のみでサバイバルしてきたのがホモサピエンスであり,農耕は成り立たなかったのだ。みんな同じという反多様性主義では破滅すると思います。


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   写真は,いずれも昨年の「ラスコー展」から

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2017.01.14

漱石のこと3

 NHKカルチャーラジオは,文学,歴史,科学など別になっていて,科学ではすでに山崎さん(先輩)も出演しているので,その後も地球科学の丸山茂徳さん,系外惑星の井田茂氏などが続いていた。で,ラジオだが今はインターネットでストリーミング配信されていることを知って,スマホで通勤電車の中などでまとめて聞くことができる。これは便利である。去年の暮れの文学分野で,「鴨長明の方丈記」も大変ためになった。

 さて,漱石と科学であるが,先ず坊っちゃんは,数学教師に設定されている。しかも,自分の嗜好を述べる台詞の中に「語学とか文学は真っ平御免」とある。当時文学で名をたてていた漱石のユーモアともとれるが,嫌な赤シャツを,きどった文学士にあてて,それは自分がモデルだと述懐したそうである。じつはこちらの方がユーモアであり,我が輩は猫であるの寒月,三四郎の野々宮さんなど,教え子で門下生の寺田寅彦をモデルにすると同時に,彼から得た当時の最先端の科学の知識が随所に出てくるし,科学に造詣が深くなければ書けない内容を盛り込んでいるのが漱石文学の特徴である。というわけだ。

 さらに,漱石の「文学論」そのものもが,英国留学中にであった池田菊苗(味の素の発明者)に触発された科学的な方法論に(あこがれて)よって書かれているのである。池田に会った後に,妻鏡子にあてた手紙の一説が有名で,「近頃は文学書は嫌になり候,科学上の書物を読み居候」とあり,文学論の中で,無理矢理「F+f」という数式で文学を要約しようと試みている。漱石は,とにかくあてにならないものが嫌いで,科学のようにすっきりとした説明が理想だったようなのである。言われてみると,我が輩の猫は何でも知っていて,ニュートンの力学の3法則を講釈したりしていたこと,人間の観察眼がまるで客観的,科学的(生物学的特徴からの分析というか)であるなど,読んだときにシンパシーを抱いていたことをおもいだした。そして,政治的な風刺なども鋭い,ということに改めて気づかされたところなのです。

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2017.01.12

漱石のこと2

 漱石のファンになったのは,高校の現国で「こころ」を読んだだけでなく,大学受験で浪人していたとき,ほとんど小説から小品まで読んだからだ。ちょうど岩波から何回目かの漱石全集が刊行中(1970年代中頃)で,父親が注文したため,家に次々に配本が届いていた(すでにほとんどそろっていた)。受験勉強するのがいやで,勉強よりこっちの方が人生のためになる,などと代償行為的に読んだのだった。

 我が輩は猫である,坊っちゃん,三四郎,あたりなら良いが,それから,門,行人などなんでこんなに暗い小説なのか,まったく受験生にとって悪影響しかないものにまで,ハマっていたのである。ただ,もっとも印象に残っているのは,漱石が朝日新聞社に入る直前に書かれた,二百十日や野分である。これくらい読んでいると,漱石の評論などを読んでも,よく分かるので,大学生の頃は江藤淳の「漱石とその時代」なども読んだ。最近でも,「漱石という生き方」や「草枕の那美と辛亥革命」なんていう本まで買って持っている。000069109442016_01_234_2
 没後,100年と言うことで,昨年NHK で作られた,ドラマ夏目漱石の妻もしっかり見た。シンゴジラの長谷川博己と尾野真千子(かくれファン)が演じていて,とても良かった。宮沢りえと豊川悦司のヤツは見なかったが。それから,NHKラジオのカルチャーラジオ「科学と人間」で,「漱石,近代科学と出会う」,は漱石が間違いなく理系に属する人間であることを示してくれる番組だった。これについては,次にしよう。
 
 生意気と思われるだろうが,知らない人が多いと思うので言っておくが,「野分」という小説,これはなんと社会主義を標榜しているのである。だから,その前に書かれた坊っちゃんが風刺小説だというのは実に鋭い指摘だと感心するのである。

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