思想・哲学・文学

2023.01.05

斎藤環著「自傷的自己愛の精神分析」

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精神分析は,高校時代にすこしはまったりした。40年前は心理学がブームで,大学の心理学科に行きたいという人が結構いたのを思い出した。今,ひろゆき(氏)みたいなのがもてはやされる一方で,ひきこもりとか格差の拡大とかをただ指摘するだけでなく,だれもが漠然と感じる世の中の生きずらさや分断の時代背景を分析して説明ほしいという潜在的な欲求を満たしてくれそうだと思ってkindleで買ってササっと読んでしまった。学校時代の不登校から社会でのひきこもり,がどうも圧倒的に増えているとだれもが思っている(社会現象)はずで,若い人たちの生きずらさを,もっと何とかしなければと,私なんかは強く思うのである。はっきり言って現政権の問題意識のなさで,ひどくなっていく一方なのだが,その背景というか,人々の内面でなにが起こっているかを,分析して解決への処方箋まで書かれていて,広く読まれるべきだと思いました。

SNSの承認欲求とか,トランプ大統領の自己愛パーソナリティー障害とか,発達障害とか,アダルトチルドレン(現在は死語)などなど,心理学用語のはやりすたりの変遷から解きほどいて説明があるので,とても説得力があり,また論理的に理解できて納得しました。

2022.10.10

未来は過去からやってくる~思いがけず利他(中島岳志,ミシマ社)

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Amazon何気なく注文して読んだのだが,とても面白く共感した一冊。著者中島さんは政治学者というが,心理学とか倫理学というかテレビや新聞などの評論でも人のこころの綾みたいなものに触れて,考えさせてくれる方だと思う。つい最近NHKのロングインタビューという番組でも,安部元総理暗殺の背景について,日本の今,世の中の分断について歴史をふまえて的確に伝えていたと思う。

利他的行動,と一口行っても難しい。情けは人のためらず,というのは自分のため。だとすれば,それは利己的ではないのか。という問いを続けていく。結論は,利他行動というより,よりよい生き方の問題になっていて,私たちは何かを得ようとして,それが得られるものではなく,思いがけず外からやってくる,いわば偶然によって導かれるように生きている,それが重要だという。私たちの存在自体がよく考えれば,偶然にすぎず,すでに多くの人(存在)からの恩恵(仏教でいう縁)で成り立っている。自分の選択といえども,過去に因縁があると考える。ことによって,世界を受け入れていく‥‥‥。うーんうまく言えない。ぜひ読んでみてください。過去のある時の選択や導きが今の自分を作っていると考えれば,自分も他に対して影響していて,自然に利他にかかわっているんだと,いう認識がもてて一つ気が楽になりました。

2021.06.02

大澤真幸,木村草太=対談「むずかしい天皇制」晶文社刊

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 古代の天文学や曆に興味をもって,昔の人がどの程度,観測技術や知識をもっていたか調べたくなった。古墳などの建造物をつくる土木技術や曆の編纂などは時の政治勢力(豪族や天皇家)の権威を示す象徴でもあったから伝承されたであろうが,文書などの資料には残っていない。したがって,考古的な遺跡や遺物から明らかにするしかないのであるが,その最も重要な遺物である古墳の多くが宮内庁によって歴代天皇陵に治定(神話上の天皇まであって絵空事と事実の区別があいまい)されているために発掘調査ができない,という近代国家にあるまじき科学軽視の実体がある。そして歴史に目をむけてみても,なぜ武士が天下を治めるようになってからも天皇が存続し,その名の下に先の戦争が起き,敗戦後までそんな制度が続けられているのか,という疑問がのしかかっていたところ,出版された本だったのでAmazonで予約して3日前に手に入れて読んでみた。

 社会学者の大澤さんはよくNHKの歴史ものや討論番組などで知っているし,憲法学者の木村さんもテレビやTwitterで辛口の論評をされている。基本的には,大澤さんの解説と論評が主で,法律学的によく分からない点を木村さんに質問して議論が深まっていくという対論が,現代の天皇制の問題,歴史的な経緯,明治憲法と戦後憲法での位置づけという流れで行われている。読み終えて結論を一言で言えば,天皇制は大問題であるが,何故あるのか,どうすれば良いのか結局よく分からない,というものである。もっというと,日本ないし日本人の特質というべき「空気」というものが,天皇制そのものである,という締めくくりになっている。全体の議論がそれに説得力を与えていて最後にむなしい気分にさせられるのだが,たぶん多くの人がそう感じるのではないだろうか。

 問題となるのは,憲法で定められた国民の基本的人権が,天皇および皇室には認められていない,ということである。多くの人は,天皇は別格だと思っているかもしれないが,それなら,天皇にはどういう役割があり(国民の象徴とはなにか),どうやって認められる(世襲のしかたは皇室典範という法律できめられる)などが憲法にはなにも書かれていない。天皇は,国事行為(総理大臣の指名や法律の承認など)だけを行うというが,私的に慰霊やお見舞いの巡幸を行っていることなど,曖昧なままである。細かいことになるが,戦争と軍隊を放棄するいわゆる9条の草案をみて,昭和天皇はこれでは共産勢力に侵略されると心配して,アメリカに沖縄に基地を残すように直接働きかけた,ということが明らかになっているそうだ。このような政治介入をできなくする(平成天皇の退位も一種の異議申し立てであった)ように作られているわけだが,人権の問題も,これからの継嗣の難しさなど多くの問題が残されているのである。

 天皇が,空気を作っているというのは,政治家や軍人がけっこうダメでも,最後は天皇が戦争を終らせたり(814日の御前会議),慰霊の旅や被災地の訪問によって国民の気持ちが癒やされるといったことだが,考えようによっては最近のトランプによる深刻なアメリカの分断のようなものが我が国では,天皇制によって起こらないようになっているという。まことに,消極的な意味として作用しているのが天皇制だという。それではあまりにと,存在意義をあらためて問うと,歴史的に何時なくなっても良かった程度としか考えられないのに,万世一系などと信じがたいものが存続し続けているのは,ひとつには島国で,敵からの侵略にさらされない日本の本気度の薄さに加え,政権を担当するものたちが時々の既得権益で延命することだけを考え,いざとなったら天皇を担いで,錦の御旗を立てて責任を天皇に押しつけてきただけだったという,残念なことながら,これがまさに日本の空気であるとしか言えない気がしてくるのだ。

 私にとっての,天皇家とは何かという答えは見つかりませんでしたが,普段ほとんど考えたことがない法的な問題として天皇制に向き合う良い機会になりましたし,木村草太さん国際的な法学からでも民主主義の考え方が色々あるとか,大澤さんの「第三の審級」といった概念について理解を得られたりするので,一読の価値は大いにあり,お勧めします。

2018.07.27

「縄文人の死生観」山田康弘著、角川ソフィア文庫

513qzatlvl_sx350_bo1204203200_ ジュンク堂で見つけた文庫の新刊(「死と生の考古学」の文庫化)を読んだ。いま東博で開催中の縄文展をはじめちょっとした縄文ブームになっているようで、NHKも歴史秘話ヒストリアなどで関連番組をやっています。このブログでも縄文について何度か書いていて→縄文VS弥生縄文時代北八ヶ岳へ。話は前回の「万引き家族」のつづきになる。この本は縄文時代の墓(埋葬)について書かれた本です。でそれが、万引き家族で、家族の住む縁の下に埋葬された、樹木希林と同じなのです。縄文人は死者を集落の中心や貝塚(祭祀的な場)に埋葬していたんです。また、当時は多かった死産や妊産婦と幼児の死に対する特別な死生観、再生観があったと考えられているという話。土偶はほとんど女性をかたどったもので、子供が死ぬと遺体を土器にいれて埋葬していたなど。

 著者は、最後に縄文人の思想が、現代人と乖離しているが、むしろ我々現代人の考え方を見直すべきではないかと述べていて、同感です。ホモ・サピエンスはもともと狩猟採取に適応して進化したものであって、10万年単位では身体性に基づいた生活が基本であるという(養老先生とおなじ)話になっています。
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八ヶ岳山麓北杜市考古資料館の再生を象徴する土器(2015年11月に訪れたとき)これいま引っ張りだこのようです。


 詳しい話は本に譲るとして、いつも星見で通っている八ヶ岳山麓は、改めて縄文の宝庫といった場所だなと思いました。

2018.04.05

昭和は遠くなりにけり(松本清張「点と線」)

NHKEテレでやっている100分で名著を毎回録画している。人生、本を読みたいと思ってもそうたくさん読んでる暇もない。読書の時短にうってつけの番組だと思う。先週まで松本清張を取り上げていた。社会派ミステリーの大御所。新聞か何かの文芸欄(忘れた)かで、清張のような作家は現在存在しないという指摘を目にしたが、個人的には高村薫がいると思う。
 
それで、テレビの録画をするときに目についた番組もついセットしてしまうのだが、BS朝日で松本清張ドラマ「点と線」2部一挙放送というのが目に入ったので録画してあったのを、昨日見た。

点と線は高校生のころに読んだ。あの頃は、昼休みに友達とサッカーとかバカふざけをするのも飽きて、図書館に行って読めそうな本を読んでいて、松本清張全集を手にしたのだった。たしか、点と線、砂の器、球形の荒野あたりを読んだ気がする。今ではこれらの内容が断片的にごっちゃの記憶になってしまった。

点と線は、要するに容疑者のアリバイトリック崩し、で今となっては古典的ともいえる話で、列車時刻表と飛行機がカギになる話として清張の代表作とされている。

意外なことにウィキペディアを見ると映画化(1958年)、テレビドラマも2007年に一度きりしかされていない。その2007年のビートたけし主演のものを見たのである。砂の器とか黒革の手帳のように何度もテレビドラマ化されていなかったのである。

2時間半近い長編で、なかなか重厚な作りだった。

そして、あらためてこの小説は、アリバイ崩しがメインではなく、これぞ政界官界の汚職疑獄事件もの、の原点ではないかと思えたのである。自殺者をだしても、知らん顔を決め込んでいる、まったく今の安倍疑獄、麻生の官僚切り捨てのストーリーそのままである。なんと、昨日だかNHKが明らかにした、口裏合わせのお願いシーンや、事務官がわざとらしくアリバイの証拠を警察に知らせにくるるなんていう嘘の上塗りも出てくる。

ただし、警察トップへの捜査圧力などにもひるまず捜査課一丸となって犯人を追い込んでいくところは、おそらく今なら、完全に忖度が前提であり得ないだろう。あるいは、大臣の江守徹の貫禄(名演だ)といい政治家も腹が座っていて安倍や麻生とは大違いだ。

テレ朝は、いま放送すべきだと考えたのかもしれない。

同様に話題になっているペンタゴンペーパーという映画も見てみようか、と思う。


それと、出演者のそうそうたる顔ぶれが、宇津井健、池内淳子、市原悦子、橋爪功、平泉成、小林稔侍、江守徹など。
これは昭和だと思った。この10年で亡くなった人もいる。無論、清張こそ昭和(戦争を引きづっている)だが、こういうTVドラマはもう作られないだろうなと思いつつ、昭和は遠くなりにけりと感じたのでした。

2018.02.24

銀河鉄道の父

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歳をとったせいもあるが、小説を読んでこんなに涙が止まらなかったのは初めてだった。親が子どもを思う気持ちに満ちた小説というのも、ありそうでなかったかもしれない。祖父から質屋に学問は必要ない、と家を継いだ父は息子には甘かった。というか自分の夢を託したのだろう。このあたりの機微を小説にしてしまったのがうまいと言えばうまい。
元祖地学オタクである宮沢賢治。専門は土壌学や化学だったとは言え、天文や岩石鉱物、地質の知識は当代一流のレベルだと思う。国立天文台の渡部潤一氏には「星空紀行」と題した宮沢賢治のエッセイがNHKのコズミックフロントのウェブページにあり、地質調査所地質標本館の加藤碵一氏には「宮沢賢治地学用語辞典」という著作まである。
子どもの頃に童話を読んだ覚えはないのだが、よだかの星などは梅原猛の「地獄の思想」で感銘をうけた。銀河鉄道の夜のプラネタリウム番組もDVDを買ってもっている。
直木賞と一緒に芥川賞をとった、若竹千佐子さんの「おらおらでひとりいぐも」(永訣の朝の一節)も読んでみることにした。

2018.02.18

半分生きて、半分死んでいる

また,新しく養老先生の本が出た。そのタイトルが半分生きて,半分死んでいる,である。量子力学の解釈に「シュレディンガーの猫」というのがあって,そこに猫が半分死んでいて,半分生きている,というたとえ(解釈)があって,何か関係があるかと思ったが,別に物理学の話は出てこなかった。51salgzgm0l_sx306_bo1204203200_


相変わらずというか,完璧に養老イズムがまとめられている。前作「遺言」からさらに煮詰まった感じだ。最後の方で「平成を振り返る」という章があって,平成とはすべてが煮詰まった時代、とある。養老さん自身もオウム真理教事件が東大をやめるきっかけになったそうだし,9.11の同時多発テロ(忠臣蔵みたいなものだという)以降,世界は信じるに足らなくなった(まじめに報道を信じる方がバカ)という。
様々な政治家の暴言失言や,企業の不祥事など,すべて言葉によって社会脳が構築したシステム内でおこることであって,現に存在するものや個々に注目しなくなったからだという。
これからどうするか,「現代社会から外れている人に注目したい」そうである。私はこの言葉に救われる方の人間である。

2017.12.30

そろそろ人工知能の真実を話そう

 ジャン=ガブリエル・ガナシアというフランスの情報学者が書いた本(早川書房)である。養老先生の「遺言」に紹介があったので買って読んでみた。よかった。AIが将来人間を超えて、地球を支配するというシンギュラリティは、単なる妄想にすぎないということが書いてある。シンギュラリティというのは、特異点など訳せるが、最近ではコンピューターの進歩がある一線を越えて、新たな世界が到来する(だいたい2045年ころ)というAIシンパの脅しみたいなもののことだ(という認識をこの本を読んで知ることができた)。

 情報学者というと、数学や理論的な説明を連想するが、シンギュラリティというのがそもそも理論的に裏付けられておらず、むしろ思想とか文化的な背景から生じてきたことを歴史学者的に説明している。未来がある時点でガラッと転換する(世界)というのは、昔から一神教(ユダヤ教キリスト教)のなかにくすぶってきたグノーシス主義(人知主義)と同じものだというのだ。また、議論自体が科学的に検討されているものではない、ことも強調している。

 結論から言うと、グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル、マイクロソフト(これをGAFAMと略すそうだ)などのグローバルIT企業にとって都合のいい宣伝(やはり脅し)にすぎないということだ(訳者のあとがきだけ読んでも大まかな内容がまとめられているので、立ち読みされるといいですよ)。

 そもそもコンピューターが人間のような意識を持つことができるか、といえば、養老さんが言うように、意識というものすら人類は理解するに至っていない。脳をコンピューターと考えることが浅はかといっている。
 意識の特徴には眠るということも含まれているだろうし、脳の機能や大脳皮質がどうやって活動しているのかわからなければ、単にコンピューターが機械学習を始めたからと言って、意識を持つはずがないのである。

 AIが、将来人間の上に立つ、というのは幻想です。この脅しにのらないために一読をお勧めします。

 
 

2017.09.20

アナログ

 たけし,つづきなのだが,ビートたけし(北野武)が恋愛小説を発表したそうだ。→こちら
 さすがに多才というべきだが,題名の「アナログ」について,「スマートフォンは嫌い。IT産業が世界中の人間に手錠をかけたと思ってる。便利だけど、貧富の差が開いたことへの影響も感じる。なるたけアナログで行きたい」と答えている。同感である。
 サピエンス全史のハラリ氏も,少なからず将来GoogleやAmazonのようなIT企業が世界中の人々の個人データ(知能や性格まで)をデータとしてもつことになると指摘している。理由は小学生にも分かるだろう。スマホはなるべく使わない方が良い。

 小田嶋隆が書いているように,昭和50年代まではさまざまな団体の住所録を集めて売っていた。生徒名簿,会員名簿などの住所が漏れたとしても,DMが手書きであった時代にはだれも個人情報の流失などと騒ぐこともなかったのである。90年代までは,パソコンだってなかばおもちゃみたいなものだったし,インターネットだってこのniftyのフォーラムとかに入って情報を交換するくらいだった(5年も続かなかった気がするが)。デジタルが今のように席巻しまくるようになったのは,たぶん半導体の加速的進歩でより速く,莫大なデータを扱えるようになったためで,だからといって世の中(世界というか自然界)が変わったわけではない。はっきり言って2000年代から余計な仕事がどんどん増えていったと思う。いつも言ってるが,コピー機もなく,ガリ版ずりの謄写版の時代は,プリントなんか滅多につくっていなかった。そろそろ紙ベースの情報さえ無くなりそうだが,結果として誰もが馬鹿になっていくだろう。

実際,この世の中はデジタルで記述できるはずがない。どんな大きさだって,1,2,3‥‥と区切られておらず,定規をあてれば,何処までも誤差がつきまとう実数(意味分かります)なはずである。ちょっと前まではCDはデジタル化しているから音質が損なわれていて,レコード(アナログ)の方が良いに決まっている,と言っていた(90年代前半くらい)ものだ。

 そのことを,知らない世代というのが,ほんとに言うとちょっと怖い。子どもには,なるべく自然から直接受けとる感性(センス)を育てて欲しいものである。昔は,物理の授業で,誤差の測定というのを最初にやったのだけれど,ほんとそれって何よ,としか今の人は思わないだろうな。やはり,ちょっと怖いと言っておこう。

2017.08.28

仏教の唯識

 先週NHK教育テレビで放送された「こころの時代」~唯識に生きる⑤というのを録画してみた。いつも見ているわけではなく,出演者に理論物理学者の大栗博司さんが登場していたからだ。仏教学者の横山紘一氏と20分くらいの対談が面白かった。000069109602017_01_580
 
 唯脳論は,まさに唯識論と同じで,この世のすべてはわれわれの脳に生起する意識でしか表現されない,ということだ。もちろん無意識というのもある(仏教では阿頼耶識と)が,意識的なことがらを表現するとすれば,絵画や音楽でも良いが,普通は人の話す言葉というもので記述することになる。では,言葉とは何か。つくられたものである。そういう恣意的な言葉で,元々からあった世の中の様子をただしく記述できるのか。そういった制約から逃れられないのでないか。
 さらに,われわれの考えというものを意識的につたえようとすれば,言葉にせざるを得ない。本来の事象と言葉の結びつきは,すでにつくられたものとしてあるから,逆に私たちはそのような社会的な約束に即して生きて行かざるを得ない。そうではない,父母未生以前の自己(漱石にでてくる)とは,どのような存在か,といった考え方を探ると仏教になる。西洋では,絶対的な神がもともといることになっていて,すべてはすでに与えれたものとして存在するから,このような議論ははじまらない。

 古くからわれわれの認識が,かなりあやふやなものだということは分かっていたのだ。では,なぜそんな風に脳ができているかと言えば,人々が協力し合って認識を共有し,信じる(虚構でも)という能力を持ったからだと考えることができるだろう。集団で何か事に当たり,力を合わせるには,言葉が必要だったし,ウソ(でも)を信じ合えることが大きく役立ったと考えられる。


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