心と体

2017.11.21

記録と記憶

 映画ブレードランナー2049を見て、記憶と記録の問題が出てきて考えた。近未来、どうも記録を消すことが大事になっているらしい。なんと最近の、森加計問題に酷似しているではないか。あるいは、パラダイスペーパーとか、記録が富裕層を脅かしている。そして、主人公の記憶が埋め込まれたものか否か、が分かりにくくすこしイライラさせられる。

 NHKの海外ドキュメンタリーで、実際、記憶の書き換えができるというのをやっていた。冤罪などの例や、それによって、心的外傷を取り除くという応用まで。最近の時代劇の奉行所ものを見ると、江戸時代の方が記録をたどる場面が目立つ。歳をとって、過去を振り返ってみると、よく覚えていないことは、もちろんのことだが、たくさんある。記憶力の問題だし、嫌な記憶は自然に消えていく。忘れたくない思い出もあるが、少しずつ消えている気がしてきた。これは、忘れたら存在しないということを意味している。日記を書くという習慣は大事なのかもしれない。

 問題は、コンピューターとデジタルデータだ。グーグルのストリートビューもすごいが、監視カメラのデータの保存量がほんとに膨大になったのだろう(クラウドにしてるのか)。スマホのデータも知らぬ間に吸い取られているわけだし。ほんとにこのようなビッグデータをとっかえひっかえ意図的に操作させられたら、いくらでも個人を冤罪で犯罪者に仕立て上げられるように思う。最近のフェイクニュースもほんとに危うい。フォトショップを使えば簡単にインチキ証拠写真だって作れるだろう。

 あーくわばらくわばら。

2017.08.09

記憶3

 現在,朝ドラひよっこのお父さんが記憶喪失から立ち直ろうとしている。生まれ育った奥茨城村に帰ってきたら思い出しそうなものだが,ドラマではもうすこし溜めをつくるのかもしれない。

 よくある記憶喪失ではなく,脳の海馬を損傷(または切除)すると以後の記憶ができない症状(前向性健忘)が起きることから海馬が記憶に深く関わる器官であることが分かった。ここにくり返し出来事のデータが流れると脳の別の場所に(ハードディスクのように)記憶が残るらしい。このような脳の働きについては,90年代(もう20年前)にNHKで驚異の小宇宙人体「こころと脳」というシリーズで養老先生が解説していた。

 昨今の安倍政権内部の説明抛棄というべき対応でしばしば,記録を破棄しただの,日報があったのに報告しなかっただの,記憶にないから,事実ではない,といったでたらめの連続は,ホントに人としてあるまじき(生物学的,ホモサピエンス的,倫理にもとる,非道徳的)対応と言わざるを得ない。で,それがいけシャーシャーと堂々と白日の下にさらされつつ平気でいられる(やっている本人たちの)感覚が,もう何というか世も末としか言いようがない。

 悪いと思っていないのだろうか。

 記憶や,記録(データ)をこんなにないがしろにできる理由は1つしかない。奴らはただのバカだという理解だが,であれば,そんなのが国民の血税を吸い取りながら生きているのは許しがたい。だれか何とかしてくれ。

 

2017.08.06

記憶2

 記憶について,つづけると,生物にとって記憶はそもそもなにか。アメフラシの実験は環境の危険な状況を察知したときの対応である。条件反射と言っても良い。これができないと生き延びられないから,神経系に記憶がのこる。
 で,複雑な神経系,すなわちシナプスの新たな連結ができることが記憶になると考えられて(証明されて)いる。だから,将来,脳の記憶が読み出せるようになるだろうというのがSF映画のモチーフになっている。

 もう一つ,この連結(記憶)の読み出しは,自分でもときどきくり返し思い出さないと,忘れることで,だから忘れるというのも大切な記憶に関する研究だということ。先の番組では,この記憶の想起の時に,適当な操作をすれば,記憶の書き換えができるそうだ。たしかに,過去の記憶は,結構いい加減で,写真のアルバムなんかそのためにあったのかと思う。おそらく日記も。記憶は,いつも上書きされて少しずつ美化されているし,嫌なことは覚えていない(消す)。このしくみで,特殊な薬物と心理療法を行って,PTSD(心的外傷)を直すことがでるそうだ。

 多くの人がブログをやるようになったのも,そのためだろうと思うし,個人的に言うとFBは,消えてもよい記憶のなんというか墓場みたいで,近頃見るのが嫌になってきた。

記憶

 これも以前書いたけれど,自分が自分であるという自己同一性の強烈な意識が意識の特徴であり,日々の記憶の積み重ねによって形作られている,だろう?らしい?と思われる。それが脳の中にどのようにあるかは,ある程度分かっていたり,動物(アメフラシとか単純な)の神経系の実験などで確かめられている。というか,養老風に言えば脳が脳のことを考えている。これも養老先生の口癖で,一般の人はあまりお考えにならないでしょうが,(おまえバカだろうけど)人間が考えることは,すべて脳から生じているから,脳が脳のことを考えるのはそれ相応の制約(何らかのバイアス)がかかってるとみるべきである。

 自分のことで考えると,同じ本を2冊買ってしまったりするように,記憶がちゃんとないといろいろ不具合が起きる。そのことに気づけば良い方だ。本を読んだ記憶(本の中身)もたいてい忘れている。暇つぶしに読む推理小説などがそうだし,まじめな勉強の本でも,読み返すとちゃんとすでに自分が大事な部分に線を引いていたりするのを発見する。日常的なことになれば,忘れて何回もおんなじことをやって新しがっているに違いない。という話を,NHKBSの世界のドキュメンタリーで先週やっていた。この番組で,初めて知ったのだが,特殊能力で,日々のすべてのことを忘れることができない,全部覚えている人が極めて稀にいることも紹介していた。

 ということは,忘れるのも一定の能力または適応かもしれない。ぼけというのは老人力とか言う人もいるように。だが,痴呆(認知症)にはなりたくないものだ。肉体的に衰えるのも困るし,人は煩悩が多いものである。

2017.07.07

人体という小宇宙

 今年は,高校の生物基礎も教えている。昔の生物に比べると内容が精選されてアホみたいに細かいことは教えなくても良くなった。染色体の連鎖と組換えとかカルビンベンソン回路の中身とか。それが「生物」だ,みたいな部分がなくなった。反対に,恒常性とか生態系とか実際的な内容に代わっている。

 昨日は,試験後の授業だったので,4月からの復習と称して生物の見方を簡単に説明した。習ったもののサイズと数の話。養老先生の受け売りでもある。

 生物学のセントラルドグマ(古いんじゃ?)が教科書に出てくる。DNAからタンパク質ができるという。それから,細胞のこと,細胞分裂のこと。染色体とDNAの関係は,昔より分かりやすい図が描かれるようになった。
 しかし,大きさのことに触れている人は少ない。DNAは分子レベルだからnm(ナノメートル),細胞は顕微鏡だから㎛(マイクロメートル)単位だ。で,細胞は10㎛位だから,DNAの約一万倍。もし,DNAのはたらきを見ることができるとしたら,イメージすると,幅1cmほどのリボンのようなものからmRNAに転写,アミノ酸が連結してタンパク質ができるというのだが,それをながめている人から見て,細胞のサイズは1万倍だから10000cm,すなわち100mである。細胞がいかに巨大なプラント設備のように見えるか,ということ。
 さらに,私たちの日常スケールと,細胞のスケールも,ほぼ1万倍の差がある。10㎛は1/100mmだから,その1万倍が10cmになる。私たちの身体の10cm四方くらいの肉塊に,細胞は10000×10000×10000個,つまり1兆個ある。もし細胞1個を直径1cmのビー玉にしたら,これが1辺100mの立方体にぎっしり詰まっているイメージ。
 
 このような,巨大な(無数のシステムからなる)生物のしくみを理解したと信じている方がおかしい,と養老先生は指摘している。大腸菌が何億だったっけ,自分の中に住んでるのだって,うちのかみさんは信じないだろう(自分はつねに清潔だと思っている)が,事実だからしかたない。普通宇宙というと,広大無辺のことだが,地球の海なんかもふくめて,生命そのものが宇宙と言ってよく,こんなことを考えても何にもならないと仏教では「空」と呼んできたのだろう。「無明」かな。

2015.12.21

養老さんの講演

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 12月19日,かながわトラストみどり財団設立30周年記念講演会に行ってきた。テーマは「これからの人(ヒト)の生き方」で,昔から憧れの?養老孟司先生がお話しされると案内をもらったので申し込んだ。かながわトラストに一昨年から,小網代の森の保全で入会して寄付している。岸先生も前座的に小網代森調整会議代表として報告された。副代表の柳瀬さんとの対談は,終始満場の笑いを誘う漫才見たいな雰囲気であった。

 話の骨子は,私にとってたしか1990年の「唯脳論」以来慣れ親しんでいるので聞く必要もないくらいなのだが,いくつか興味深かった話題を記しておく。
①島根県はきれいだが,広島と長崎の街は汚い。その理由は,一度原爆などで徹底的に破壊された歴史によるだろう。人は,そういう経験で変わるものだ。
②昔の子どもは10kmくらい平気で歩けた。学校が近くにないと文句をいうが,遠い地区から通わせた方がいい。途中の道草が勉強になる。
③日本の至る所,戦前まで土地は利用され尽くしていた。今は森になっている場所が多い。それをみんな知らない。
④昆虫の分布のしかたで,地史が分かる。丹沢や伊豆はもともと島だったと分かる。フィリピンなんかとつながる。
⑤三瓶山のふもとにある火砕流で埋まった縄文時代の遺跡が復元されているのは参考になる。
⑥縄文時代の巨木は,石斧で切れないから残されていた。照葉樹林帯では生活できない。
⑦岸さんみたいなまともな人が30年かけてやっとできるようなことが本物,すごい(小網代の保全)。
⑧本気でまじめに考えていないことが多いように思う。

 とまあ,他にもあったけれど忘れてしまった。人にできることは色々あって,なんでも都会のサラリーマンになればいいと言うものではない。とにかく,時々は自然のなかへ出かけて身体をつかってなんかやることが大事なんだ,ということだと思います。
 

2006.01.06

養老孟司「身体の文学史」から

 はじめての海外旅行でロンドンへ行ったとき,街の造作や商店の形式が,まるで東京の銀座あたりと変わらないことに気づいた。外国に来たという気がしないのだが,考えてみれば日本がこれを真似ただけなのだ,と思ったとき,とても情けなくなった。明治の西欧化が日本にもたらしたもの,などと言うが,もたらしたなどと,さも主体的な日本があるように言ってはいけない。全部真似した,そっくり入れ替えて,それまでの日本の,養老さん風にいえば,歴史を消したというべきではないか。日本の歴史では,これを文明開化と言って済ますが,よく考えてみれば内からの植民地化みたいなものじゃないのだろうか。この変わり身の速さが,この国のきわめて変な特質であることを,もっと知っておいた方が良いと思う。これが「無思想」という日本の「思想」ということになるが,それはおく。
 それで,いち早く近代化したことが間違っていると言うつもりもない。しかし,これがきっかけで日本人の奇妙な自分探しが始まったということも考えてみる必要があると思うのである。
 端的に,養老さんの言っていることを解説しよう。自分とは何か。それはその人の「心」ではなく「身体」なのである。現在の日本人でもっとも個性的な人,イチロー,松井等々ではないか。自分が考える自分というものは,考えれば考えるほど「点」のようなものでしかない。どうしてかと言えば,考えるのが脳のくせであり,「心」なんて言うのは自分の意識が(脳が)つくりだしているものだからである。それを出力するのは,身体であり,出力されたとして,それが他人に分かるとき,別に面白くも何ともないはずのものだからである。他人に分かる「心」なら,自分と「同じ」ではないか。分からない場合,その人はおかしな人(変人または精神病者)であろう。同じである以上,「心」に個性というのはない。したがって,他人から見て,自分の特徴(自分とは何かという自分探しの自分)を示せるものは,身体しかない。身体的な表現が際だっていれば,他人が「すごい」と認めるのである。自己という個としての自分を他人と区別するものは,身体でしかありえない。
 自己から見た自分以外に自分はあるか。すでにふれたように,「社会的な自分」,「世間」的な自分,というのがある。それを消したのが明治維新だったのであり,どうであれ消された自分を,ご丁寧に過去の封建的なものを否定しつつ,取り戻そうとしたのが,明治大正の日本文学が生み出した,面白くも何ともない「私小説」だった,というお話でした。