文化・芸術

2017.10.15

運慶を見たくなった


 見に行こうと思ってまだ行っていないのだが、開催中の特別展「運慶」。今朝のNHK日曜美術館で見てしまった。
みうらじゅんが、最後に「スゲェー運慶」と感想を言ったが、まさにすごーい。無着世親の後ろ姿、手には血管が浮き出ているという。やはりこれは見に行かなくては。
  よくクールジャパンとかいうが、12世紀にこのような写実彫刻が世界にあったかというのは知られていないんじゃないのか。ミロのビーナスもすごいが、それにならったというミケランジェロのルネッサンスは16世紀だろう。日本のその後の彫刻というのはすたれてしまったのがなぜなのか、理由を知りたくなった。11月26日まで、暇なときに行けるといいが。

2017.08.10

飲み物のこと

 酒つまりアルコールと乳(哺乳類の栄養)以外の飲み物には,お茶とコーヒーぐらいしかないのが不思議である。強いて言えば,コカコーラやサイダーもあるが,そういうジュース類を除いて,毎日飲むような飲料という意味で,お茶かコーヒーというどちらも栽培植物を煮出すような(焙煎や発酵する)ものが2種類しかないのが不思議とおもいませんか。
 
 お茶が日本につたえられたのは栄西だから鎌倉時代。コーヒーはイスラム圏から中世にヨーロッパに広まった。ワインやビールが紀元前からあったのと比較すると,やはり飲み物というのは限られているといって良いのだろうか。

 お茶もコーヒーもカフェインが含まれていて,最初は薬の役割が大きかったようだし,モンゴル人には,団茶が貴重なビタミン源だったりする。いまは夏なので,水出し麦茶を飲んでいるが,これは薄ーいコーヒーみたいな物だと思っている。むかしタンポポの根でコーヒーを入れるなんてことも試したが,結局お茶とコーヒーしか,良い飲み物が見つからないというのも,なんだか不思議な気がする,のです。


 

 

2017.07.31

周辺減光

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 藤原新也の沖ノ島の写真展を見てきた。木曜日,平日だというのにま,人がたくさん。写真展というのをたくさん見たわけではないが,写真撮影OKというのは予想外だった。彼の多用する手法は,一種のボケと露出アンダー,それとこの写真のような真ん中に光があって周辺が暗い,周辺減光である。

 写真の基礎からいうと,ピンボケとか露出不足とかは失敗の部類なのだが,視覚的に感覚を表現していて,それらしい。周辺減光に至っては,わざとらしい気がしないでもない。実は,レンズというものの性質(円い筒に光を通すため)として周辺減光というのは光学機器の避けられない現象なのだが,いまどきこんな極端な周辺減光が起きるレンズはつくられてもいないし,反対に画像処理でなくそうとするものなのだ。

 でも,視覚的には夢とか幻想をあらわしているようで,悪くない。ピンボケも,暗いのもわれわれの無意識であることを表象しているのだろう。

 無意識という題目を語るのは項を改めてみたいと思う。

2017.07.26

藤原新也の沖ノ島

 7月に世界遺産に登録されて,一般の人はもう立ち入ることができないという沖ノ島。藤原新也という人はそういう旬な場所を一歩先にかぎつける能力があるみたいだ。昨日BSでその番組を録画してみた。
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 小説まがいのルポというか,ほんとにそんな不思議なことあるの?というような話を次から次に書く人だと思う。同じことは,「みんな彗星をみていた」の星野博美さんにも共通する。世界を旅してエッセイを書くというのには少しあこがれる。藤原新也の場合には,写真がまたすごい。番組では,その場所で空気を感じ,その空気が写せると思ったらシャッターを切ると言っていた。大げさだが,たぶんその通りなんだと思う。直感を研ぎ澄ますというか,普段からそういう訓練というか,写真文学者というジャンルはこれまたあこがれる。8月1日まで,沖ノ島の写真展をやっているので見に行ってみるつもりだ。

2017.06.30

生物多様性

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 世の中の変化ということをつづけて考えていてる。
 
 生物学で,もっとも新しい分野は生態学だが,そのなかで2000年ころから,急にBiodiversty(生物多様性)という言葉がでてきたように思う。それまであまり聞かなかった。
 多様性というのは,いままでの科学の整理のしかたとは,ちょっと違っている。学問というものは,物事の分類,整理,統一をめざして構築されるもので,まとまりのない,意味不明な,収拾が付かない話では認めてもらえない。多様性を認める,というと,いったいどれが重要なのか本質なのか,どれでもいいんですか?ほったらかし,で良いんですか?みたいな感じがする。今まで,科学というのは要素に分解して,それを分類,整理してうまく進んできた。

 であるけれども,実際のところ自然というのは一筋縄では解明できない,めちゃくちゃ複雑な予測不能な存在であるとも言える。唯一単純なのが太陽系の天体の運行(それも楕円軌道は暦学者を悩ませたが)だったから,そこから科学が進んだわけだ。で,その傾向がいわゆる要素還元主義,物理化学的世界観である。オッカムの剃刀とかラプラスの悪魔のような考え方は,たぶん理屈っぽい小学生にでも説明すれば,良く納得するのではないだろうか。だが,この傾向は,ヒトの脳の癖であろうというのが,養老先生の指摘である。

 自然,たとえば,木に生えている葉っぱは,おそらく,大きさ形,葉脈のつきかたが,全部違うだろう。だから「違う」というべきなのに,「葉っぱ」でまとめる,以上終わり,にする。でないと,先に進まない。われわれはそうやって世界をまとめて分類して整理して片付けていく。すっきりして居心地が良いし,不安もやわらぐ。

 つまり,本来自然界は違いに満ちているのに,ヒトの脳は同じを嗜好する。それで,われわれは安心立命を保っていられる部分がある。ただ時々事実に立ち戻って検証しないと,脳の中で観念や言葉だけ一人歩きしだす。さらにわれわれがこしらえたもの,人工物や対人システムの中だけで暮らしていると,違いを徹底的になくした世界に安住しだす。自分の都合だけの世界では,弱者(子ども)は居場所を失う。
 
 敗戦後うまれのわれわれ(最近の人は,遠い終戦後生まれ,稲田防衛大臣とか)は,闇市こそなかったが,みんなそれぞれ違った考えで,民主的にやっていこうね。と教わった気がする。違いはあって当たり前,それが戦後民主主義。どういうわけか,ボーイスカウトの制服とかあれはアメリカの軍国主義,といううさんくささでながめていた。無論,科学的なものの整理のしかたとは別に違いを重んじていた。

 いつの間にやら,ものの見方,人生の方向性までもが,みんな同じになってしまったようだ。稲田防衛大臣の発言も,そうやって丸めて納めたがるのが,最近の人々の傾向らしい。

 結論を言う。地球環境にとって,いかに多様性が重要であるかが,科学的に理解されるようになった。DNAしかり,生態系しかり。単一の作物を広大な農地に作付け可能なのは,気候が安定している場合だけだ。地球は過去数万年にわたって,激しい気候変動にさらされていた。その中で,狩猟採取のみでサバイバルしてきたのがホモサピエンスであり,農耕は成り立たなかったのだ。みんな同じという反多様性主義では破滅すると思います。


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   写真は,いずれも昨年の「ラスコー展」から

2016.05.09

音楽の新しさとは

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 作曲家の冨田勲さんが亡くなった。作曲でも有名だが,モーグシンセサイザーの作品は20世紀の大きな偉業ではないだろうか。一昨年くらいにタモリ倶楽部で,富田さんが出演し,そのモーグの使い方をやっていた。音に関するオタクというか,音学者だと思う。
 音楽家は音楽をやるが,音楽学や音楽学者というのはないのだろうか。音楽でプロになるには,ピアノなど西洋のクラシック音楽を習得してもいいが,ぜんぜん関係なく路上パフォーマンスのフォークギターでプロになれる世界でもある。どういうわけか学校の音楽室の壁の上の方に掲げられていたバッハやベートーベンの肖像画はなんだったのだろう。なにか,いわくがあったに違いない。それに象徴されるような学校の音楽教育からそれほど新しいものが生まれるとは思えない。むしろ伝統的な日本音楽なら、雅楽や謡や三味線を教えるべきではないのか。
 音楽やダンスは,そういうふうに,誰でもできる(カラオケも含め)し,感覚的でその善し悪しは言葉にならない。そのため,芸事として,スポーツのようなところもある。しかし,きわめてヒトの脳に特別なアイテムである。運動なら犬猫でもできるからと,ペットのイヌやネコと踊ったり歌ったりしたいと思う飼い主がいても,それが不可能だという点で特殊である。動物に音楽は理解できない。

 音楽の個人的な好みの話だが,FM東京のジェットストリームを聞いて,クラシックではないインストゥルメンタルが好きで,フォークより,松任谷由美(ユーミン)のニューミュージック(ほかに言い方はないのか)が原点だったと言いたい。また,そのころからジャズが一番(ただし,当時のマイルスとかは難解)だった。
 でも,今聞いているほとんどの音楽は西洋音楽のドレミファと和音からできていて,日本の民謡にしろバグパイプにしろ民族音楽は,たとえ長い歴史があったとしても,まさにクラシック(伝統音楽)と言う存在になっている。しかも,西洋音楽(=ルネッサンス期から)の歴史も500年くらいだと思うと不思議である。ベートーベンなんて江戸時代の人だ。人類にはもーっと長い歴史があるのに,なぜ音楽の歴史は短いのだろう。絵画はたぶんラスコー洞窟の1万年以上前にさかのぼるだろうに。
 いずれにせよ,音楽は現在,娯楽以上(好きなものをほとんどいつでも聞けるという)生活に欠かせぬ存在であるということもふくめて,いろいろ考察してみても良いと思う。居酒屋やラーメン屋などのBGMは有線放送でほとんど「懐メロ」が選択されている(喫茶店がジャズやクラシックが定番とか)ことなんかも含めて。


2015.10.03

海辺のカフカ

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 芸術鑑賞といえば,普段は美術館の展覧会ぐらいしかでかけない。以前NHKの歌謡コンサートの抽選に当たって森進一や和田アキ子を見に行ったとき以来になる。ホールとか劇場のチケットをわざわざ手に入れて,村上春樹原作,蜷川幸雄演出,宮沢りえ主演の演劇(舞台芸術)鑑賞にでかけた。場所はさいたま芸術劇場,これもはじめてのお出かけ場所,埼京線なんて滅多に乗らない。どういう風の吹き回しかというと,NHKのSWITCHというインタビュー番組で宮沢りえとリリー・フランキーの対談を見たのがきっかけである。演劇の宣伝というのはあまり見かけないが,これはちゃんと宣伝になっていたし,テレビの申し子みたいな宮沢りえがやけに役者魂みたいなのを披露(ロンドンやニューヨーク公演でも受けたことを自慢げに)していたので,その気になってしまった。
 もちろんテーマというか題目が「海辺のカフカ」というのも興味津々である。村上春樹に一時ハマルくらいの経験はあったし,1984(途中まで)やねじまき鳥クロニクルと海辺のカフカは読んでいたので。で,これらの小説が,映画や演劇にできるのかという漠然とした憶測もすぐに思い浮かんだ。話(ストーリー)が錯綜しますよね。さらに,幻想と現実がごちゃ混ぜになるみたいな小説で,読む分にはこちらの頭を夢見心地にすればなんとかなるけど,見たり演技するとなると意味不明のアングラ劇みたいになりはしないかという心配もでてきて,なんだかわくわくしてきて,カミさんも都民の日が休みだったのでネットでホリプロのメンバー登録してチケットをゲット。
 見てきた感想は,当たり前によかったです。いいもんですね,やはりライブというか生身の表現に触れるというのは。で,演出というか舞台装置がすごいわけ。演劇で,普通場面設定を変えるときは暗転して,舞台道具をゴソゴソかえて明るくなって,か,回り舞台ですかね。それを,移動できるアクリルのゲージが次々に動き回って出てくる仕掛けなのです(宮沢りえが小さな水槽みたいなのにしゃがみ込んで閉じこまっていたり)。これで,映画みたいにストーリーを進行できるわけで,おそらくほぼ小説通りのストーリー展開だったと思います。
 小説でも,突然ジョニーウォーカーやカーネルサンダースが出てきて面食らうのですが,なんでこのお芝居が想像したとおりのイメージなのか不思議なくらいです。ネコと会話したりする場面も,演劇だから違和感なく,読んだことがなくても充分物語に入っていけると思います。むしろ小説より分かりやすいのではと感じました。演劇というのは,登場人物がこちらに語りかけてくる感じに親近感というか,こちらも感応できる安心感があるもんです。人間のもつ毒や邪悪,を扱う場面に同道させてもらうよろこびというか,村上ワールドそのものを体感した気分でした。
 思うに,小説家で自殺に至る人が多いのは,まじめに人間を描こうとすると善と悪,天使と悪魔が出てきてしまい,自身の本性にさいなまれるためだろうと思い当たります。そういう意味ではファンタジー仕立てで,ものすごい悪を登場させて消化しないと,自死にいたる。村上春樹や高村薫やスティーブンキングの小説を読むと分かる気がします。今時の文学性に共感できたカタルシスでした。最後に森のなかに消えていくりえちゃんきれいかったです。


2012.08.09

多摩天文グループ結成40周年記念天体写真展

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昨日から,所属している天文同好会(多摩天文グループ略称TAG)の天体写真展をかわさき宙と緑の科学館で開催している(今月26日まで)。
発足40周年ということは,since1972年ということで,当時のメンバーは川崎市多摩区中野島中学の3年生10名ほどだった。天文ガイドに紹介されたのを見て,私も翌年から加わった。皆同い年同士で流星や変光星の観測を競ってやったり,コホーテク彗星とかウェスト彗星などの写真を撮ったりするのに霧中だった。その後次第に年齢層も広がり,社会人になってからもその時々の天文現象を追い求め,粘り強く活動を続けてなんと40年もたったわけだ。4月にはホテルで記念パーティーも開催した。

昨日から早速受付を担当したが,リニューアルした科学館で初の市民グループの発表であり,1日で400人弱もの来場者があって我ながら盛況さに感激した。お盆休みはもっとくるから延べ1万人を超えるかもしれない。
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川崎で昔見えた天の川の写真からはじまって,彗星,日食,オーロラ,流星,星雲星団,星景写真など盛りだくさんで,来た人に結構感動をあたえている。いろんな質問に答えたりしていると時間も忘れるほどで,科学コミュニケーションとしても大きな役割を果たしていると実感なう,である。

2004.03.31

怪獣と昭和

 ゴジラは単なる恐怖映画ではない気がする。第五福竜丸の被爆→被害者→加害者→アメリカ→敗戦→民主主義→国家神道→間違っている→日本人→アイデンティティ喪失→タナトス→戦後復興→破壊、といった矛盾を無意識のレベルで表している気がする。
 小学何年だろう、たまたまテレビをつけたら(いつ何時かは、ちゃんと調べれば分かるのだが)三島由紀夫の割腹事件の生報道中であった。そばにいた、父親が「おい、これは‥」といって、テレビを食い入るように見始めて、何事かと思った記憶がある。ものごごろついてから、そういえばあのとき、と整理した経験だが、どうも自分にとって、確実にこの世はなにか矛盾をはらんだものである、という認識をそのとき確立させたのではないかと思っている。
 いかりやさん(ドリフターズ)の訃報で、昭和40年代を振り帰ったら、気になることがいろいろ出てきて、Web上で調べていたら、円谷英二の特撮怪獣映画、中でも父親に連れて行ったもらって見た、「海底軍艦」や「妖星ゴラス」のことを思い出した。さらに、最近DVDが発売されているのを知って、早速取り寄せて見てみた。
 なんだか、結局これが自分の原点か、と大げさに思うほどである。何がって、幼少時に見て大きなインパクトを受け、物事の認識のベースがここにある。
 特撮というのは、現実ではない。だが、もしそうだったら、こうであろう。というイマジネーション(想像力)の極みみたいな表現行為である。アニメは同じことを、表現出来る(出来ないから)アニメという手段に(前提)にしているのだと思う。円谷英二の「ハワイ・マレー沖海戦」はGHQが実写フイルムだとして没収したという。父親も含め、敗戦後20年間は、だれも日本が負けたと認めたくなかったのである。それを無意識に押し込めておいて、作られたのが、東映の特撮怪獣映画であったのだと、DVDを改めて見て思った。